Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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新聞記事より「全域が等価」
20日付の朝日新聞「折々のことば」より、記事内容を取り上げます。「胸や、顔面などという中心部に、塗り残されたキャンバス地があらわれている。赤瀬川原平」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「どんな『名画』も解釈に縛られずに飄々と見る美術家が眼をとめたのは、セザンヌの『坐る農夫』。いつもサクサクと筆を進める画家はなぜ画面のあちこちを塗り残したまま筆を擱いたのか。空白が画面の中心をも穿ち、存在の『全域が等価』になったことが重要だという。我流で見ると言いつつ『近代』をその深層で触診するところが出色。『赤瀬川原平の名画読本』から。」美術家赤瀬川原平の在りし日の活動を、私は調べ尽くし、出版された書籍は全部読み、展覧会にも足を運びました。彼が私の母校の先輩であることを知り、また私の親戚の住む近所に「ニラハウス」という自宅を建てていたことも知っていました。彼の評論も、深い内容を簡単なコトバで語っていて、その凄さに驚きます。著書「老人力」はそろそろ私にも実感できる部分があって、思わず苦笑してしまいます。さて、近代絵画の父セザンヌの近代を通り越して現代性に達したものが、存在の「全域が等価」を評した視点ではないかと考えます。塗り残しをそのまま完成としていたならば、まさに絵の具を塗る行為を示した現代絵画の領域です。セザンヌの時代には、造形の価値転換が図られた時代でしたが、それは対象をどう描いたかが問題であって、描いた部分と描かれていない部分を共存させることは、まだ革新すぎて誰も完成と認めなかったのではないかと察しています。現代人の眼において、まさに「全域が等価」になった世界観を見取って評価をするところが赤瀬川原平流の切れ味の鋭いところですが、セザンヌ自身は果たしてそこまで考えていたのでしょうか。