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芸術と猥褻の狭間で…
映画「エゴン・シーレ 死と乙女」では、シーレが描いたデッサンがポルノグラフィーとして烙印を押され、13歳の少女を誘惑したとして、シーレは逮捕され、裁判にかけられます。裁判所は訴えを却下しましたが、作品は焼却されてしまうのが映画の場面に出てきました。シーレの例に限らず、芸術か猥褻かの議論はその後も続いていたことは近現代美術史を見れば明らかです。私が現在読んでいる「芸術の摂理」(柴辻政彦・米澤有恒著 淡交社)の中で、柴辻氏と米澤氏の対談が掲載されていて、米澤氏の語る言葉に注目しました。芸術か猥褻かの議論として、まず芸術派にはこんな主張があります。「『芸術』という自由な精神活動を『猥褻』といった卑俗な尺度で量るのは本末転倒もはなはだしい、芸術には特権的で超法規的な価値を認めるべきではないか、芸術に対する理解の広さと深さこそ、社会の文化水準を示すバロメーターである。」それに対する猥褻派の主張では、こうなります。「『芸術』といえども人間社会の文化的相貌の一つに過ぎないから、芸術だけに特権が与えられるいわれはない。社会の『公序良俗』に反するものは自ら慎むべきで、その制御もきかないようなものが芸術であるはずはない。」これは美学の立場から双方の食い違う意見を米澤氏が簡単にまとめたものです。主旨が分かり易いので引用しましたが、さらに猥褻に関する意見が続きます。「西欧では性的な問題と猥褻とは必ずしもイコールではありません。精神的な意味での猥褻もありうるからです。」西欧ではプラトンの「饗宴」からキリスト教に至るエロスの意味が、神の愛と人間の愛を区別するものとして扱われていますが、日本の場合はどうなのか、米澤氏の意見はさらに続きます。「日本ではエロスといいますと、対比する神の愛がありませんので、性的紊乱を煽って公序良俗を乱すだけのもの、エロティック、即ち猥褻という等式になってしまいます。」芸術と猥褻に関する議論でも、西欧と日本ではニュアンスが異なることが分かりました。芸術と猥褻の狭間で、その動機となった芸術そのものの成立を掘りさげてみたい欲求に駆られます。西欧に於ける芸術と神の関係を次稿で取り上げようと思います。