Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

「ロダンとの関係に関する仮説」について
「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第4章 陶製彫刻と木彫浮彫(1889年と1890年)」の「5 ロダンとの関係に関する仮説」をまとめます。ゴーギャンが生きた19世紀後半で最も存在感を示していた彫刻家と言えばオーギュスト・ロダンです。この生粋の彫刻家ロダンとゴーギャンの間にはどんな関係性が見受けられたのか、少ない資料の中で著者は果敢に調査を試みています。「ロダンはゴーギャンの絵画《峡谷》と1889年の亜鉛版画を所蔵しており、彼を画家として高く評価していたことは明らかである。しかしその炻器に関してはロダンは、木彫と同様、『珍奇なもの』という評価を下したに相違ない。」こんな状況でも2人が会っている可能性がありました。「ゴーギャンとロダンが1887~88年の冬に会っていた可能性もある。裕福なオーストリア人画家ジョン・ピーター・ラッセルがロダンの友人であったことは知られている。ロダンはラッセルの妻の肖像彫刻を制作し、銀で鋳造したのであった。ラッセルはまた、コルモンのアトリエで知り合ったファン・ゴッホやトゥールーズ=ロートレックの友人でもあった。ラッセルの娘ジャンヌの話としてグルンフェルドが伝えるところによれば、ロダンはモンマントル墓地の近く、ラッセルの冬営地ヴィラ・デ・ザールでゴーギャンに出会っていたという。またある夜、ラッセルはモンマントルのキャバレーにロダン、ファン・ゴッホ、ゴーギャン、トゥールーズ=ロートレックを招いたと伝えられている。」当時は象徴主義の台頭もあり、そうした中で芸術家同士が新しい潮流に共感していた場面もあったのでした。「ロダンとゴーギャンは、ともに1880年代末にますます盛んになっていた象徴主義の傾向に与していた。こうして両者はともに1890~91年、カフェ・ヴォルテールで象徴主義者たちの議論に参加していたのである。しかし彼らにおける象徴主義概念は同じではなかった。ロダンを捉えていた生と死の観念は、ゴーギャンにおいてはその後エヴァやヴィーナス像の中に、自らのプリミティヴィスム思想を加味したヴィジョンを投影し、死と再生の問題へと変貌していくのである。」