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埼玉浦和の「ボイス+パレルモ」展
昨日、埼玉県立近代美術館で開催中の「ボイス+パレルモ」展に行って来ました。戦後を代表する現代アーティストのヨーゼフ・ボイスと愛弟子のブリンキー・パレルモ。私はパレルモの作品を見るのは初めてでした。展覧会を巡っているうちにボイスとパレルモの交差する点はどこなのか、従来の美術の概念から外れる部分として、どこかに2人の共通点があるのだろうと推察していました。とくにパレルモに関して私は初見なので、図録の解説も参考にしました。「実の両親を知ることなく、1962年に引き寄せられるようにデュッセルドルフの芸術アカデミーにやってきたこの若者は、一見成り行き任せに名前を変え、作風さえ変えた。現在地を確認しつつ、自らを否定する。絵画を頼りにしながら、その構成要素を解体する。まったく新しい支持体を求める。それは振り返れば瓦礫、周りにはフェイクばかりの戦後ドイツにおいて何かしらの予感を引き寄せるために必要な姿勢だったはずだ。」そんな画学生がボイス教授の下で何かしら影響を受けて、固有の美的体験を実現しようとしていたようです。「ボイスとパレルモは、作風の逕庭に比してよく似ている。素顔を別のアイデンティティで覆い隠す点でも、私たちの意味解釈に揺さぶりをかけようとする点でも、制作と生活の(再)接合を企てる点でも、また『いま・ここ』にあらざる何かへと照準を合わせる点でも。近代において確定されたかに見える種々の二項対立、たとえば合理と非合理、芸術と日常などの境界を攪乱し、新たに組み直そうとした点、彼らはこころざしを共有している。」(鈴木俊晴・福元崇志著)とあり、そうした視点で作品を見直すと、2人が求めようとしたことが分かった気になります。美術作品の鑑賞は、自らの美意識に基準を合わせて、その作品が自分にとって美しいかどうかを判断し、味わうところにその醍醐味があります。「ボイス+パレルモ」展は、そこにある作品を味わうものではなく、全てを造形として受け入れて、従来自分が培ってきた美意識の変革を誘発する提言を視覚化したような産物です。結果、美術館に出かけて美術作品を見た気がしない感想が残りました。うーん、先駆者ボイスに関してはまた稿を改めて考えていこうと思います。