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「『ウィーン工房』のブランド確立へ」のまとめ①
「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第五章 『ウィーン工房』のブランド確立へ」の前半部分をまとめます。ここではまずウィーン分離派の決裂について触れています。「そもそも分離派は、ウィーン造形芸術家協会内の『若手』と呼ばれた一派が組織の保守的な体質に反発したことから生まれた。『若手』は絵画、彫刻、建築という他分野の芸術家たちの集まりであり、明確な統一様式はもたず、芸術の近代化を目指した点で結びついていた。そのため、時を経るにつれて、メンバーの創作上の表現や、とりわけ経済活動への関与に対する姿勢の相違がグループの統率を困難にした。」分離派からクリムトを中心とするメンバーの脱退がありました。「芸術を通じてオーストリアの再生を図った政府との結びつきを失い、ウィーン工房やクンストゲヴェルベシューレが主要な活動の場となっていた状況で、かつてウィーンの芸術刷新運動の担い手であったクリムト・グループの性格は変化した。彼らは、急進的な芸術の変革者から、総合芸術の精神に基づく美的生活のデザイナーとしての性格を強めた。」クンストシャウと呼ばれた美術展が1908年に開催され、絵画、彫刻、建築、工芸、ポスター、舞台美術、教会芸術、庭園芸術、児童美術を網羅した展覧会には135名の芸術家が出展したようです。その状況を記したクリムトの箇所を引用します。「出展作品に合わせ、正方形がライトモティーフとなった簡素な壁面には、現在、傑作として知られるクリムトの絵画16点が間隔をあけて陳列された。陶酔する男女が金色の耽美的な装飾に包まれた代表作《接吻》(1908)は、この時に初公開された。さらに、官能的な女性たちが金箔と鮮やかな色彩で描かれた《ダナエ》(1907-08)、《ウミヘビⅡ》(1904)、ならびに、寓意的な《三世代》(1905)、写実的な人物と平面模様と化した衣装と背景が一体化した肖像画《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像》(1907)、奥行きを放棄した極端な装飾的風景画《ひまわりの咲く庭師の庭》(1908)、《バラ》(1904)等が展示された。ウィーンの様式芸術の頂点を極めたクリムトの壮麗な絵画は、クンストシャウのクライマックスであった。」このようなクンストシャウを振り返った考察が書かれていました。「クンストシャウが、分離派誕生から10年のウィーン近代芸術の成熟を示したのは事実である。しかし、『成熟』は完成というよりも、むしろ新たな段階への移行を意味した。クンストシャウは総合芸術と様式芸術の祭典として成功を収め、ウィーンの様式芸術に確固たる地位と名声を与えたが、そこには商業的要素が混在していた。また、クンストシャウは1907年以降のウィーン工房の方針の一つの到達点であった。ウィーン工房は、彼らが世紀転換期の様式芸術の流れを汲んでいることを人々に明示すると同時に、ウィーン工房が質実な日用品ではなく、美的な工芸品をつくる会社であることを知らしめた。クンストシャウは、『ウィーン工房』という名をただの会社名ではなく、高級工芸品のブランド(商標)にしたという意味で、ウィーン工房のブランド化を決定的にした。」今回はここまでにします。