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「歴史主義からの離脱」のまとめ
「オットー・ワーグナー建築作品集」(川向正人著・関谷正昭写真 東京美術)の「第2章 歴史主義からの離脱」をまとめます。私が20代の頃、ウィーンに住んで楽しかったことはシュトラーセンバーン(路面電車)とシュタットバーン(市電)の存在でした。あの頃の市電はレトロな車両が使われていて、古都に似合う情緒がありました。その駅がワーグナーの設計によるもので、本書にはこんなことが記されていました。「ひまわりや特有の渦巻き模様などの分離派的な建築装飾が表層に加えられて、19世紀の間にワーグナーが育んできた芸術的特性と、これから20世紀になって強くなる技術的特性が融合するものになっている。」そのカールスプラッツ駅舎はウィーンの中心にあって、人の往来が多く、私もよく使っていました。その背景となったのがアール・ヌーボーやウィーン分離派の芸術動向でワーグナーもその一人になっていました。「歴史主義からの離脱と近代建築創出をめざしていたワーグナーにとって強い刺激と励ましになったのは、画家・工芸家コーロ・モーザー、建築家オルブリヒとヨーゼフ・ホフマンなどの若手が『七人クラブ』という非公式なグループを結成し、たびたび集まっては激論した、建築の新しい動きと未来に関する議論の場だった。しかも、アール・ヌーボーという新種の様式を実際にワーグナーのアトリエに持ち込んだのも、当時彼のもとで働いていたオルブリヒやホフマンらの若手であった。『七人クラブ』は、1897年には画家グスタフ・クリムト(1862-1918)をリーダーとして旗揚げされた『ウィーン分離派』に発展した。翌年にはオルブリヒの設計によって活動拠点となるウィーン分離派館(1897-98)が完成し、その玄関の上には『時代にその芸術を、芸術にその自由を』という彼らのモットーが、金字で刻まれた。因みに、ワーグナーがウィーン分離派のメンバーになったのは1899年である。」私がウィーンにいた1980年から5年間、ウィーン分離派館(セセッション)はリニューアル工事中で、内装を見ることが出来ませんでした。当然、クリムトの有名な壁画も見られず、私が帰国の途についてから、完成したウィーン分離派館がニュースになっていました。