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「粘土と塑造」について
「彫刻の歴史」(A・ゴームリー M・ゲイフォード共著 東京書籍)は彫刻家と美術評論家の対話を通して、彫刻の歴史について語っている書籍です。全体で18の項目があり、今日は6番目の「粘土と塑造」について、留意した台詞を取り上げます。「陶製の物体をつくるときには誰でも、かたちのないものからかたちづくられたものへの原初的な変容を繰り返しているような感じを抱くものだ。火のなかに入れて石のように固くなった時点でそれはもう錬金術だ。経験を記憶に託すことであり、瞬間を化石のように固めることだ。」(A・ゴームリー)話は中国の兵馬俑に及びます。「1974年のこと、現地住民の楊とその一族が、西安の外れで井戸を掘る工事をしていました。彼らははじめ自分たちが発見したのは鍋の一部だと思っていたのですが、やがてそれが人体像の一部分だとわかったのです。現地の中国共産党の代表が、いつまでたっても井戸掘り工事が終わらないのを訝しんでやってきました。そしてこの彫刻群の存在を知るとすぐに工事の中止を命じたのです。以来1000体を超える陶製の兵士像が掘り出されました。この場所全体で7000体くらいはあると見込まれているうちの一部です。残る全体の約5分の4の兵士像は、いまもなお土に埋もれています。いずれも人間をひとつひとつ等身大で再現したもので、その数は膨大、小さな町の人口に匹敵します。」(M・ゲイフォード)「粘土は変容をもたらす素材だ。かたちを保っていられるので、ひとつのアイデアを現実のかたちに移行することができる。最初に粘土を使い始めたとき、僕は直にそれに触れたというしるしを実際にもたらしてくれるなにかが欲しかっただけなんだ。働きかける手とそれを受け容れる素材とのあいだに起こった出来事を、足跡のように直接的に伝える証拠だ。」(A・ゴームリー)粘土は現代作家の表現にも及んでいます。「フォンタナの陶作品は、粘土に触れる瞬間をエネルギー場としてそのまま表現する。翻訳しているわけではない。じつに信じがたいことだ。これはその素材であり同時に、実際の作品そのものなんだ。型から起こしているわけじゃない。彼はふたつの手のあいだの空間からかたちづくれる以上のものを絶対につくらない。フォンタナの陶作品は、アメリカの画家ウィレム・デ・クーニングの《砂浜の漁師》を予告するものだった。彼らはその自由の水準を保持していて、イメージの再現を賛美している。イメージの消滅ではなくてね。」(A・ゴームリー)今回はここまでにします。