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横須賀の「運慶 鎌倉時代と三浦一族」展
今日は工房での作業を休んで、横須賀美術館で開催している「運慶 鎌倉時代と三浦一族」展を見に行ってきました。美術館に行くのは久しぶりで、工房に出入りしている若いスタッフ2人を連れて行きました。私は運慶と名のつく展覧会にはつい出かけてしまう癖があります。若い頃の私は、運慶によって仏像の魅力を知って、それからさまざまな仏像についての造詣を深めていきました。運慶の周辺仏師を慶派と称し、鎌倉時代の将軍家からの発願によって造仏を行なっていました。つまり彼らは東国に制作の拠点があったと考えられ、有名な奈良の東大寺や興福寺に残る仏像以前に東国で制作されたものがあると考えられます。図録に東国を治めていた三浦一族のことが書かれていました。「この三浦一族の造仏にみる仏教文化受容は、鎌倉幕府が開かれ、その成立に一族を挙げて協力し、和田義盛の侍所別当を筆頭に、三浦義澄・義村親子、佐原義連、岡崎義実といった面々が御家人として重要な位置を占めたことにより、よりいっそう進んだ。最も象徴的なものが、文治五年(1189)に三浦義明の長子・杉本義宗の子である和田義盛が発願し、新時代の造仏を担った仏師運慶を起用して製作させた、浄楽寺の阿弥陀三尊、不動明王・毘沙門天の両脇侍の群像だろう。」本展に出品されていた不動明王・毘沙門天の両脇侍の群像は、まさに運慶の運慶たる特徴があり、玉眼で睨んだ風貌に私は懐かしささえ覚えました。次に私を捉えたのは12躯ある群像でした。曹源寺の所蔵による十二神将立像では図録にこんな解説がありました。「写実的な憤怒の形相や衣文、動きのある闊達な作風から、鎌倉時代初期の運慶派あるいはその工房作とみられている。殊に巳神の現実の武将を写し取ったような姿は、他の像より卓抜な技量を示し、運慶による願成就院毘沙門天像と一脈通じる作風を示す。」私が懐かしさを覚えたのはこの十二神将立像も同じで、仏像の写実性が私に仏教世界に導きを与える要因だったからです。その頃、私は西洋彫塑を学び始めていて、体躯の解剖学的分かり易さが唯一無二の美的価値観でした。仏像の齎す精神性は後からついてきたもので、西洋の彫刻も東洋の仏像も私の中では一緒でした。平安や白鳳が私に理解できたのは、さらに先の話で、静謐な美という概念がそこから始まりました。運慶は私にとって初歩的入門編の仏師だったのでした。