Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「理論・作品・藝術家」について
「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)は副題を「エドゥアール・マネ没後の闘争」としています。その「第2章 死亡記事の闘い」の「2 理論・作品・藝術家」についてまとめます。現代の評価ではマネは印象派の先駆者と位置づけられています。「藝術教育をすっかりやり直すことなくしては、公衆にはマネの画布の価値はわからないはずであり、そんな公衆はマネのタブローを見ても、そこに色斑しか見分けられないのである。そして実際にそうした色斑は、最初に目にしたときに自然が我々に提供するような、まさにそうした初見の色斑なのである。我々の目はその第一印象をすぐに忘れてしまうものだが、マネが表現しようとしたのはまさにこれなのであるーそして、それ故に印象主義の画家との呼称がでてきたわけである。」さらに印象派には後続する画家もいたのでした。「もしマネがただの孤立した個性でありさえしたら、我々は彼に対して厳しく当たることもなかっただろう。しかし、マネには模倣者どもがいて、えてして模倣者にはありがちなことだが、彼らはマネの制作ぶりや、手法や欠点を殊更大げさに誇張した。かくして、彼の背後には新しい流派が現れて、自らを印象派であるとか、独立派であるとか、”志向派”であるなどと言っているが、我々としては彼らを無能者、或いは気違いと呼びたいものだ。今日の藝術は、まだ長きにわたってマネの影響を受け続けるであろうし、遺憾なことにマネを引き継ぐ者も大勢出てくるだろう。というのも、デッサンの規則を無視したり、肉付けを色斑に置き換えることは、巨匠たちのお手本に従うことよりもずっと簡単であるからだ。(マネの死 無署名 『祖国』)」写実派のクールベと印象派のマネ、ここで対照的な2人の画家の権威に対する考え方を述べている箇所がありました。「マネはクールベのように叙勲の栄に浴したくてたまらなかったのである。ただ、クールベは勲章などには興味のないふりをして、それを目の前に差し出されても拒否するほどであったが、一方でマネは、赤リボンを手にすることに、20年の闘争への褒美と、ようやく正当に評価されるという満足とを夢見ているのを包み隠そうともしなかった。」さらにマネと比較されたギュスターヴ・ドレがいました。「マネがサロンの問題児であったなら、ドレは挿絵家と見なされたがゆえに、晩年までブルジョワ的栄達に見合った社会的栄誉を得られず、『運命神経症患者』として世を去ったといってよい。」今回はここまでにします。