Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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師匠の世界観との相違について
昨日、国立新美術館で開催中の「自由美術展」に行って、師匠である池田宗弘先生の彫刻と版画の連作を見てきました。師匠は83歳になっても創作意欲は衰えず、作品に込めた社会的メッセージにも力が漲っていました。私は大学に入って間もなく、彫刻のノウハウを池田先生に教わりました。人体を通じて立体構造の成り立ちを分かりやすく伝えていただきました。池田先生もその師匠である清水多嘉示から立体構造についての講義を受けており、それを当時の学生に伝授していたのでした。その発端は巨匠ブールデルにあり、ロダンのような抒情に流れない構築性が教えの全てでした。当時の私は池田先生の世界観である社会的メッセージにも惹かれていましたが、私にはそのセンスがないのに気づき、私は別の表現を探るようになりました。池田先生のもう一つの表現である木版画にも私は挑戦していました。私はドイツ表現派の精神性に富む版画がその契機となりましたが、そこでも私はついに納得の得られる作品は出来ませんでした。作品が持つ物語の説明要素を、私が作りこむと虚飾性が拭いきれず、主張が上辺だけになってしまうのを私は恐れていました。私は彫刻の根幹である構築性だけを残して、そこに何かしらの説明要素を入れることを止め、素材は素材のまま生かすことを考えていました。畢竟にして形態は抽象化の一途を辿ってしまいましたが、それを試作していたのが海外の美術学校だったので、環境的にも西洋文明の遺跡と結びつくことになりました。そこに物語としての説明要素はありませんが、在りし日の都市の残像を作っていると考えれば、私の作品は物語を奥深くに宿しているとも言えます。作品に詩情が必要なのは、私の揺るぐことのない信念です。そう捉えれば師匠の世界観と私のそれでは大きく変わることがないだけで、表現の出方が違うとも考えられます。池田宗弘ワールドに接していると、若い頃から現在に至るまでの私自身の表現思索が甦り、何とも言えない気持ちになります。私自身は一人で現在の表現に辿り着いたわけではなく、反発があり、諦念もあって、苦慮した結果、今の自分になっているという自覚があるのです。