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「乃村工芸社」について
「一期は夢よ 鴨居玲」(瀧悌三著 日動出版)の「乃村工芸社」についてまとめます。画家鴨居玲は金沢美専を卒業すると、東京の「乃村工芸社」に入社しました。「乃村工芸社は、戦前に菊人形から発展して博覧会等を手がける展示業者となり、戦後は高島屋のディスプレーを80パーセント請負って、急速に業績を伸ばした。こういう百貨店の催事業務以外に、新聞社の催事も乃村工芸社は始めており、新聞社回りをして注文を取る仕事を乃村長三郎が担当していた。~略~その乃村長三郎が、毎日新聞社事業部の幹部から玲を雇うように頼まれ、またその事業部幹部は宮本三郎と懇意なので、宮本三郎からの玲の就職話を仲介したのであろう、と往時の乃村の課長、課員らは語るのである。」玲の仕事は看板制作であったようです。「制作課長は今村勲である。仕事の上では厳しかった。玲に命じて立て看板を描かせ、うまくいかないと、『お前、絵描きだろ、絵描きが看板くらい描けなくてどうするんだ』と叱言である。玲は、『いや、でも、こればかりは違うんだな、違うんだな』としきりに言い、カンバスに絵を描くのと勝手の違う看板描きに、随分と手こずり、嘆きつつ、しかし素直に努力していた。」挿話として飲酒のことがありました。「酒は、強い方ではなかったとも言うが、よく呑んだ。ドブクロか焼酎か、安酒である。呑み屋は高島屋裏あたりから東京駅八重洲あたりまでの間に、縄のれんの店や赤提灯の屋台があり、そんな処でコップ酒を傾けた。正体無くなるまで呑んで、駅や下宿先まで、上司や同僚らに送られたことも1、2度では利かなかった。~略~絵の能力は、大概の者が認めていた。玲の絵を見た者は、テクニシャンと思った。その暗い調子に、シリアスで深刻なものがあると大概の者は感じるのだった。しかし、日常の行動は、シリアスでも深刻でもない。むしろ、おかしなことの方が多く、時に滑稽でさえあった。」玲の恋愛についても書かれていました。「或る女子社員がB嬢と親しくて、B嬢は『鴨居さんと恋愛しているの』とその女子社員に割と正直に打ち明け、それも相思でなく、B嬢の方が積極的で、一方的であることも告げていたという。そしてまたB嬢は、それから暫くして会計事務所を辞め、その後B嬢の住まいを女子社員が訪れると、既に司法書士とかと結婚していて身ごもっていたそうだから、玲との間は、囁やかれるほどでもなく、特別な処までは至らずに終わったようである。」玲は昭和26年11月頃に乃村工芸社を退社しています。誰にも退社を告げずに挨拶もなかったようで、そんなところが鴨居玲の性格を物語っているとも言えます。