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古寺巡礼「伎楽面」について
「古寺巡礼」(和辻哲郎著 岩波文庫)は単元で分けず、内容として私の興味関心を惹いたものを順次取り上げようと思います。今回取り上げるのは「伎楽面」です。「仮面の表情は、単に型化せられているばかりでなく、また著しく誇張せられている。しかしそれは、伎楽面製作の本来の動機が、表情を誇大した仮面によって、広い演伎場の多衆の看客に、遠い距離において明白な印象を与えたいという所にあるからであって、必ずしも創造力の薄弱に基づいているのではない。従ってこれらの仮面には誇張に伴うはずの空虚な感じなどはなく、空間的関係の特殊な事情による一種異様な生気さえも現われて来るように思われる。~略~仮面を畳の上に横たえ、または手にとって自分の膝の上に置いた時には、それはその本来あるべき所にあるのではない。われわれはこれまで仮面をその作られた目的から放して、それだけで独立したものとして観察するに慣れていたのである。普通人の顔の四倍もありそうなその仮面を、人体と結びつけて想像することは、この驚異の瞬間まではわたくしには不可能であった。しかしさてこの仮面が、仮面としてそのあるべき所に置かれて見ると、そのばかばかしい大きさは少しも大き過ぎはしない。むしろその大きさのゆえに人が仮面をつけたのではなくして、芸術的に造られた一つの顔が人体を獲得した、と言っていいような、近代人の想像をはずれた、おもしろい印象が作り出されるのである。」これは著者が友人宅で伎楽面を装着した友人に対して持った感想です。「能に伝わった仮面の伝統を右の経路によってさかのぼって行くと、少なくともそれは天平の伎楽まで到達することは疑えない。たとい能狂言の発達を純日本的のものとして考えるにしても、すでにその想念や題材がシナ・インドの文化の上に立っている以上、その劇的構造もまた同様だと見られぬわけはない。だからまた逆に、能狂言を参考として、天平の伎楽を空想することもできるであろう。能の面は伎楽面に比べれば全然別種の原理に基づいたものである。それと同じく能楽もまた伎楽とは全然別種のものであろう。だから伎楽の優れた点が能楽の時代に消滅し去ったということは考えられる。総じて天平の偉大な芸術は、順当な開展を伴った伝統とはなっていないのである。能狂言が長い進歩の結果として現われたとしても、それが必ずしも天平の伎楽より優れたものだとは言えない。彫刻や絵画や詩歌などにおいてしかるがごとく、伎楽もまた劇として能狂言以上のものであったかもしれない。」今回はここまでにします。