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駒場の「聖像・仏像・彫像」展
先日、東京駒場にある日本民藝館で開催されている「聖像・仏像・彫像」展に行ってきました。副題を「柳宗悦が見た『彫刻』」とあったことで、私の興味関心は一気に高まっていました。展示されていたのは円空や木喰の菩薩像や木造の神馬や三重塔、石造の釈迦如来坐像や菩薩像、楽人坐像などで、他ではサントスと呼ばれるキリスト像、加彩舞楽女子の陶俑、沖縄のシーサーもありました。民藝運動を推進した柳宗悦はこれらに彫刻的観点を持っていたというので、私はその背景を探りたいと思いました。学芸員白土慎太郎氏による解説書がありましたので、部分的に引用させていただきます。「日本民藝館の創設者である柳宗悦(1889-1961)が深く関わった初めての彫刻作品は、オーギュスト・ロダン(1840-1917)によるブロンズ像であった。1910年、柳も同人の一人であった文芸雑誌『白樺』がロダン号を発行したことを機に、本人から小品のブロンズ像三点が送られて来たのである。」彫刻への理解はそこから始まり、器にも彫刻的素材を見て取るようになったようです。「彫刻は素材から形象を生み出す芸術と言えるが、器の形状と素材が醸し出す肌とに注目する点は、彫刻鑑賞の延長線上にある。『彫刻』として見ると、陶磁器の見え方さえも変わってくるのではないだろうか。」また地蔵についてもこんな文章がありました。「1924年に柳が見出した、木喰による穏やかな微笑の素朴な仏像も、柳は『彫刻』として捉えていた。『木喰上人発見の縁起』(1925年)によれば、柳は木喰の『地蔵菩薩像』を初めて見出した日、友人に宛てて『上人は幕末における最大の彫刻家だ』と書き送ったという。」沖縄に関する文章もありました。「16世紀に最盛期を迎えた沖縄の石像彫刻は、玉陵を始めとする王陵、墳墓に納められた石棺、石橋の勾欄の浮彫、首里城から村落の入口までと広く設置された守護霊像としての石獅子などが豊富に揃う。柳はこれらに感嘆し、日本民藝館には当時撮影された石像彫刻の写真が多く残されている。」最後にこんな文章で締め括られていました。「民衆の生活には『彫刻』は基本的に不要なものだが、美術用語である『彫刻』を用いて柳が『民藝』の美を説くのは、美を見出す視座の根底に、美術的な視点があることを物語るのではないだろうか。」彫刻制作を続けている私にとって、この最後の文章に勇気をもらいました。