Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「パラオ、サタワル島の人々との交流」について
「土方久功正伝」(清水久夫著 東宣出版)の第九章「パラオ、サタワル島の人々との交流」の気になった箇所を取り上げます。久功は南洋諸島から日本に引き揚げてきて、さらに戦時中や戦後をとおして、南洋諸島がどうなっているのか、気にかけていた箇所が本章では見受けられます。南洋諸島で関わった人たちが久功の元を訪れて、さまざまな情報提供があったことも書かれていました。実際の木彫制作は帰国後に精魂込めてやっていたとしても、久功が南洋諸島で得た創造の種を考えると、芸術家として土方久功が在るのは、南洋諸島の民族との触れ合いがあってのことなのだろうと私は察します。本書を読んでいると民族誌家としての彼の足跡も大きかったように思います。「久功の名は、パラオでも、サタワル島でも、忘れられてはいない。~略~久功がパラオを去ってから70年以上経っても、人々の記憶に残っているのは、戦後もパラオの人々との交流があったからであろう。久功がパラオに滞在していた時に親交を結んでいた人は、もはや生存していない。しかし、久功は、来日した彼等の息子や娘達には会っている。これらの人々によって、久功の名が語り継がれ、これがパラオの人々から久功の名が忘れられていない要因ではなかろうか。久功はパラオから来日した人々としばしば会い、その人達に、パラオを訪れるように誘われた。しかし、南洋へ行くことはなかった。変わり果てた南洋は見たくなかったのである。」久功の死去の半年前に書かれた文章が残っています。「あの人なつっこく、正直だった島民たちはもういないで、彼ら同士でさえも互いに信じられないようになってしまったというのです。それもこれも、あの戦争の結果だろうし、文明人たちが、平和な島々を勝手にかき乱したせいだとしか思えません。しかし76歳をむかえた今でも、ぼくの心の中では、あの南洋の島民たちは、相変らず、無邪気に踊り、楽しげに、歌ったり、おしゃべりをしたりしているのです。」今回はここまでにします。