Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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新聞記事より 「動作の中の沈黙」
昨日の朝日新聞「折々のことば」より、記事内容を取り上げます。「道化ほど完全な人間役が他にあろうかとつくづく思う。ヨネヤマ ママコ」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「『人間生態の可笑しさ、悲しさ、あほらしさを黙々と表現すること』は、切なくも楽しい仕事だったと、パントマイマーはふり返る。仕事も愛も思うようにならず、ボロボロになって知ったのは『自分が自分の支配者でないこと』だったと。その後ろにある『日常の動作の中に沈黙の深さ』に身を寄せることこそ、道化の業なのか。半生記『沙漠にコスモスは咲かない』から。」人間の存在を表現して、それを周囲に伝えていく人の言動には考えさせられることがあり、つい私は眼を留めてしまいます。以前、「マルセル・マルソー 沈黙のアート」という映画を観た時に同じような気持ちになりました。身体表現であれ、造形表現であれ、黙々と表現し、鑑賞者に提示することは、自分自身を知る手掛かりになると思っています。私の場合、造形を通して人に知ってもらいたい、訴えたいと一所懸命やっている時は、自分が思っているほど人に伝わらず、たとえば彫刻の場合でいけば、私が提示した物体と物体の隙間や空間がいいと言ってくださる人がいました。それは私の中では無意識であり、意図するものではなかったのでしたが、それも含めて私自身なのだと考え直すことにしました。造形表現はパントマイムのように人間生態を切り取って見せることはないけれども、動作の中の沈黙というのは、自分で意図しなかった自分自身の自然な姿が密かに現われている状態かもしれず、それを可とすれば表現の深みや広がりもあるのだろうと思います。創作行為の中で意図が空回りしてしまうことはよくあることで、それを上手に避けることは今も出来ない私ですが、人の心を虜にする雄弁な沈黙を求めてやまないのは事実です。