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「《生誕》の位置づけ」について

「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の「第10章 失われた最後の大作 」の「1 《生誕》の位置づけ」の気になった箇所を取り上げます。本章が本書最後の章になり、本単元は失われた大作を見据えた導入部になります。「カラヴァッジョはその短い生涯のうちに、革新的な画風を確立し、さらに多様な画風展開を遂げた。しかし、ローマにおける円熟期以外の、初期の無名時代と晩年の放浪時代の数年間の画業はいまだ十分に解明されていない。特に、晩年放浪した、ナポリ、マルタ、シチリアに残された作品群は、各地でカラヴァッジェスキといわれる後継者・追随者を生み出す契機となったが、同時に数多くのコピーが生み出され、しばしばこうした作品とカラヴァッジョ自身の作品が混同されるにいたっている。~略~《聖ラウレンティウスと聖フランチェスコのいる生誕》(一般に《パレルモの生誕》と呼ばれる)は、永らく彼の絶筆として知られてきており、パレルモのサン・ロレンツォ聖堂に飾られていたが、1969年10月18日深夜、不幸にして盗難に遭い、現在なお行方不明である。」この盗難された作品をめぐっては、さまざまな考察が行われているようです。果たしてこの絶筆と言われる作品は、パレルモで描かれたものかどうかさえ判明していません。「《生誕》が、1609年の夏にパレルモで描かれたということを裏付ける同時代の資料はなく、根拠となっているのは、1672年のベッローリの短い記述と、作品がパレルモに存在してきたという事実のみといえる。~略~彼がパレルモに滞在したとすれば、1609年の8月から10月の、せいぜい二、三カ月ということになる。期間的にも非常に短く、しかも資料が存在しないこと、そして時に、パレルモ滞在の唯一の証拠である降誕図が、様式的・図像的にメッシーナの作品と著しく異なることから、彼のパレルモ滞在と作品の制作時期が疑問視されてきた。」これが本章の導入部となり、次の単元では画面に描かれたモデルについて触れています。今回はここまでにします。