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「ダダと超現実主義」について➁
「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「ダダと超現実主義」について後半部分の気になった箇所をピックアップいたします。「ダダはあらゆる形式を廃止しようとして、ほとんどそこに犠牲のなにものをも思考しえられない運動を開始するのである。この運動は完全に接近するにしたがって、いよいよ『無』を代表する一体系を創造する。あらゆる現象を無視した運動の方向は先天的な存在を暗示する。」私はダダイズムの当事者ではなかったため、なかなか思考的にもイメージできないのが正直な感想です。「象徴主義は全能力を秘密の表現あるいは仮想にそそいだのに対して、超現実主義はそれの分析、露出等、無意識界の探究に関するあらゆる複雑な心的運動を展開した。フロイトの精神分析への興味はその結果である。彼らが現実に対して超現実と呼んでいる夢はたんに対象として現実へ付加したものではない。夢は客観的な組織体として現実に対立している。この夢の現象はおそらく人間の原始時代においてすら神秘の創造として、意識に反映したであろう。」フロイトの「夢判断」は現代精神分析学では古典の範疇ですが、私はこれを読んで、夢と超現実に思いを馳せた時がありました。さらに論考が進んで、ある詩人に紙面を割いた箇所がありました。「与えられた精神の状態としての超現実主義はルイ・アラゴンにおいてもっとも自由な詩的運動の範囲を供給した。彼は唯一の形而上学者である。しかし彼の理性は先天的結晶のそれである。彼はかく告げる時をもつ。『ぼくの関心事は形而上学である。白痴ではない。そしてけっして理性ではない。理性を持つことはぼくには極めて少量の関係があるだけである。ぼくは具象を求める。なぜぼくが話すかの理由である。人びとが言葉の条件や、表現の条件について論ずるのをぼくは認めない。具象はポエジー以外の表現を持たない。人びとがポエジーの条件を論ずるのをぼくは認めない。…』(『パリの農夫』)そして『具象、それは描写不可能である』ともいう彼の詩には純粋な官能の時間のみが流れる。」私は既存の知識をもって、超現実主義をある程度把握しているために、アラゴンの詩にも腑に落ちる部分がありますが、予備知識がなければ、超現実主義はかなり難解ではないかと察します。