Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

「抽象絵画の主流 」について⑥
「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅴ 抽象絵画の主流 」の文中に出てくる多くの芸術家を毎回3人づつ取り上げて、NOTE(ブログ)に書いています。私自身の知識を肥やすために、ほとんど内容が引用文になっていることをお許しください。今回はドイツ系の画家3人です。オットー・フロインドリッヒ、フリッツ・ヴィンター、テオドール・ヴェルナーの3人です。まずフロインドリッヒ。「オットー・フロインドリッヒの場合は、時に人間のドラマのもっとも苦悩にみちた深さに達する激情の喧騒が、情感の逆流を明澄にする方向に向かおうとつとめている。悲痛な感情がかれを奪い去るか、あるいは逆に、かれの作品にめったにないきびしいアクセントを持つ偉大さを与えているこの種の昇華が介入し、命令するかによって、形態の数々が、颶風のような心をかきたてる渦巻をなしてたがいに嚙み合い、混り合い、あるいは静かな合理的な構築をなすかのどちらかがみられる。論理がドラマティックなものを鎮め、その法則にしたがわせるのだ。」次にヴィンター。「フリッツ・ヴィンターはデッサウのバウハウスでクレーとカンディンスキーの生徒だった。したがってかれは、グロピウスの学校を支配していた、幻想と厳密、機能主義と無償性の混淆によってきたえられた。教師たちは、かれに見事な技術を教えた。クレーの技術書からは線について、カンディンスキーのそれからは色彩について学び、象徴的な形態への愛と、芸術作品に生命をもたらすさまざまな手段とを学んだ。かれがつぎのクレーの言葉を長いあいだ反芻してきたことは確かである。『わたしは要素と対象と意味と様式との全域を包むことのできる、ほんとうに大きな振幅を持った作品を、ときどき夢見ることがある。』かれがこの文章から得たものは、流派への嫌悪と同時に、ロマンティスムの否定ではなくその終点かもしれぬ古典主義への渇望であったと思う。」最後にテオドール・ヴェルナー。「テオドール・ヴェルナーは、グループ・ゼン・1949に属しているが、その強い個性は、かれをあらゆる流派の外に立たせている。この近代ドイツのゼンの代表者にとっては、仏教的禅の神秘主義はすでに過去のもののようである。かれの技術や美学や、世界に関する個人の観念、をひとしく豊かにしてきた数多の豊沃な経験をへたのち、かれが自然と同じように描くようになったのは、自然にならって描くことを拒否してからである。かれが単に本能や気質の芸術家にとどまらず、熟慮の人であり、正しくいえば哲学者であることを、われわれはかれのタブローによって見抜くこともできたろう。」今回はここまでにします。