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「抽象絵画の主流 」について⑦
「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅴ 抽象絵画の主流 」の文中に出てくる多くの芸術家を今回は2人取り上げます。昨日NOTE(ブログ)にアンフォルメル芸術について書きましたが、まさにその潮流を作った2人です。まずヴォルス。「ヴォルスは、稀有の能力と異論の余地のない才能を持った画家だったが、無意識の衝動に身をまかせたかれには、あの偉大な浪漫派のノヴァーリスがたてた戒律ー芸術家は詩の発想においては完全に無意識だが、詩作においてはまったく意識的である、という戒律は記憶から消えていた。かれは絵画に、いわばシュルレアリストの用いた自動記述の方法をとり入れ、紙の上に投げられた線が偶然に動き、偶然にぶつかり合うままに描いた。現代の混乱や絶望のドラマティックな感情から出発したアンフォルメル芸術は、おそらくあらゆる領域で、ますますフォルムが失われてゆく世界のなかで、なお芸術的な形態をつくるということには、なにか間違いがあると考えているにちがいない。アンフォルメル芸術は、絵画において、原子核のエネルギーの専門家の実験で起された爆発と同じものだ。この科学の一部門が、制限も制御も、おそらくは予期も予測すらもできない力を動かすのと同じように、アンフォルメル絵画の道も、実験に実験をかさねてフォルムを確立するのではなく、もっとも純粋なできるかぎり自動的な方法で、激情の噴出を表現するにいたるだろう。」次にマチュー。「かれ(マチュー)の本領は、一種の歴史の投影に発揮されたのである。個人の宿命をのりこえ、マチューがアンフォルメルのなかでいかに逆説的に見えようとも、それが創作したものは、アンフォルメルなものによる歴史画であった。かれにあっては、創造的な本能が純粋にほとばしると、そこから過去のドラマをよみがえらせる。一種の能力が生まれてくる。自分のなかに中世の激情がよみがえるのに気がつく。その激情におされて、かれは具象的な画家がいたずらに生命を与えようと努めて失敗したものを、巨大な抽象的なコンポジションに表現したのである。群集の猛烈な動き、民衆とイデオロギーと王の野心とが衝突する葛藤。歴史画が、選ばれた主題を真実に表現する能力はたいていの場合薄弱なものであり、それも普通は、小道具や衣裳や武器や《時代もの》の家具を総動員しなくては表現できないのにたいして、アンフォルメル芸術は、激情的な瞬間だけをとらえ、絵の具を強烈にす早くほとばしるように塗り重ね、滴らして、その瞬間を画布の上に投影するのである。」今回はここまでにします。