2025.12.21
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。朝工房に行くと、私は何も考えずに土を捏ねたり、彫り込み加飾をやったり、また現在では厚板材に砂マチエールを貼り付けたり、それに油絵の具で塗装を施していたりしています。嘗て作っていた人体塑造のように、常にデッサンを念頭に入れて、微妙な加減で粘土をつけていくことはありません。私の作っている彫刻は、完成が見えていても、そこに到達するまで職人的な仕事に追われているような始末です。具象的な仕事に比べれば、何と味気ない仕事だなぁと思うことも暫しあります。作品は幾つかの部品を合体させて完成させます。それも初めに計画ありきで進めていく工程なのです。時折、原初イメージの確認を行い、それがどんなふうに具現化されているのかを見届けて、先に進めていきます。私の作品に宗教性や物語性はありません。つまり土や木はそのままの素材であり、それ以上でもそれ以下でもありません。考え方としては「もの派」に近いのかもしれませんが、「もの派」のような現代アートとしての主張は弱く、寧ろ庭園に近い演出を狙っています。庭園の場合は自然の産物を利用しますが、私の場合は全て私自身による造形で統一されています。日本の庭園は枯山水や石庭を初めとして豊かな空間を造り上げていて、私の集合彫刻に比べれば、その鑑賞の幅の大きさを感じます。さらに樹木の間に見える池や苔むした空間などを発見し、そうしたもので隠された風景を探して歩いたり、立ち止まったりして鑑賞する方法が採られています。私の彫刻は全体が見渡せる規模なので、そこが日本庭園と西洋の概念を持つ彫刻の違いなのだろうと思っています。時として日本庭園には物語性が存在し、季節による樹木の変化があります。私の彫刻にはそんな変化はなく、逆に不変な存在が彫刻であることを主張しています。私は亡父が庭園を造っていて、学生時代に亡父の手伝いをしたことが今の私を形成しているのかもしれません。