Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

映画「ユダヤ人の私」雑感
日本に住んでいると民族問題が皆無とは言えないにしても、やはり国々が犇めく大陸に比べれば少ないように感じています。とくに各国を追われイスラエルを建国したユダヤ人に関する問題は、私たちには分からない部分もあると自覚しています。キリスト教の礎を作り、また知識階級に多くの人材を輩出しているユダヤ民族ですので、他国より疎まれることもあるのでしょう。ホロコーストはそうした中で生まれ、人類最大の負の記憶を伝えていかなくてはならないと私は考えます。映画「ユダヤ人の私」は被害者のロングインタビューを通して、当時の人々が浮き彫りにされる切ない記憶が、現在に繋がるものとして訴えられているのです。映画の主役になるマルコ・ファインゴルトの経歴を図録から紹介します。「1913年、ハンガリーで生まれウィーンで育つ。小学校の教師が反ユダヤ主義者だったため登校を拒否する。~略~1939年、ゲシュタポに逮捕され、1945年まで4つの強制収容所に収容される。終戦後はユダヤ難民に対する人道支援と公演活動に取り組む。~略~2019年106歳でその生涯を閉じる。」次にファインゴットの言葉です。「今日まで何千回に及ぶ講演で、自分の経験を語る機会がなかったら、私は生きていられなかったと思う。多分、怒りが私を生かしてくれたのだろう。そして、私がこのような年齢になったのは、私が経験したことを、すべて語り尽くせていないからなのだ。」図録の文章から幾つかの内容を拾います。「アウシュヴィッツでは非人道的な暴力に晒された。自殺することも出来ないほど瀕死の状態に陥っていたマルコは、兄エルンストがノイエンガンメに移送されることを知ると、最後の力を振り絞り自らもノイエンガンメへの移送者リストに入ることに成功した。アウシュヴィッツでの死者数を調整するためだったとマルコは振り返る。~略~強制収容所での6年間は飢餓との戦いだった。マルコは飢えで死ぬ者は顔に苦しみが現れていると語る。口を開け、顔をひきつらせ、苦しんだ顔の無数の死体がトラックいっぱいに積まれて運ばれるのを見たという。」戦後処理についても図録にはこんな文章がありました。「もしユダヤ人の帰還が認められることになると、怒りや不満が込み上げるだけでなく、ユダヤ人から奪った建物やその他財産を返還しなくてはならないからだ。それを阻止するため、終戦後、カール・レンナー率いる暫定政権はウィーンのユダヤ人が故郷に戻るのを巧妙に阻止した。」ファインゴットもウィーンに戻ることが許されず、ザルツブルグに留まったのでした。私が滞在していたウィーンは、表面では音楽の都として多くの観光客を受け入れ、また美しく着飾った街として平和を謳歌していましたが、なかなか複雑な構造を抱えていた歴史が存在していたことは薄々気づいていました。そんなウィーンに5年間住んでいたことは、私にとって西欧の一端を知る契機にもなっているのです。