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「瞬時性の美学」について
「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)は副題を「エドゥアール・マネ没後の闘争」としています。その「第5章 黄昏あるいは黎明」の「4 瞬時性の美学」についてまとめます。「マネの時代には『仕上げ』ることを拒絶し、定式を裏切りつつ『出来上が』ってゆく過程を重視する絵画観が生まれようとしていた。刻々の腕捌きが印象を即時に画面上に定着してゆく現場を重視することは、とりわけデッサン、パステル、水彩に独自の価値を認める立場と密接に結び付く。制作のそれぞれの段階にそれ自体完結した価値を認める態度は、とりわけサロンで『絵画』として認定されることからは最初から排除されていた領域に格好の媒体を見いだす。」それは版画に通じるもので、こんな文章がありました。「腐食銅版画ほど単純で直接的で個人的な方法はない。ニスをかけた銅板、なにか尖ったもの、小刀、削り出しか針、酸をひと瓶。これで道具一式だ。酸は金属の裸になった部分を侵し、溝を刻む。それは藝術家が素描した線をひとつひとつ正確に再現したものだ。腐食がうまく行けば版はできあがり、あとは刷るだけだ。そしていかなる翻訳の介在もなく、画匠の考えをそのまま、生き生きと躍動し思うがままに得ることができる。」これはゴーティエの文章ですが、つまり版画には近代的視点があるというわけです。「もはや複製ではなく、それ自身で創作たらんとして版画が目指した脱皮が、たんに印象派の前触れをなしたにとどまらず、印象派の美学と称される価値観そのものをも先取りしていた、ということだろう。」次に印象派という名称に関する文章です。「デュレによれば、このように現場でじかに自然の印象をキャンヴァスに油絵の具でもって定着することこそが『外光派』の定義である。はたしてそれがチューブに入った油絵の具の発明・普及によって野外制作が容易になったといった制作条件の変化と相関していたか否かについては、近年重大な疑義が示されていて、なお決着をみていない。だがそれにもかかわらず、モネ自身が後年、世紀末になって自らのあの《印象 日の出》(1873)命名の由来を説明する際にちゃっかり借用してみせるのが、興味深いことにも、ほかならぬこのデュレの(必ずしも鵜呑みには信用できず、これ自体神話的といってよい効果を発揮することとなる)説明原理だった。~略~さらに画面に降ろす一筆一筆は、その瞬間ではまだいかなる効果を発揮するか不確定、という意味でたかだか『条件法』でしかない。画面から何歩か下がってみて初めてどんな映像が出来たかも確認できるからだ。表現行為と表象効果の確認、ないしは筆写と観察という、印象の定着に不可避的に介入するこのふたつのモメントの時差と位相差と距離のずれとが画家の実存を三重に引き裂きながら、しかしその行きつ戻りつの宙づり状態が絵画制作の複合した営みの緊張感をも約束する。」今回はここまでにします。