Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「展開された場としての写真」について
「像をうつす」(金井直著 赤々舎)の「4 展開された場としての写真」について、気に留めた箇所をピックアップいたします。「『展開された場における』彫刻=写真を見るとき、私は《地獄の門》、《バルザック》以後の彫刻が、クラウス(批評家ロザリンド・E・クラウス)が主張するように、台座からの解放(モニュメントの失効)を契機に、一定の論理の下、展開したというよりも、むしろ彫刻への写真の浸透という別の観点において、連続、一貫しているのでは、と問いたくなる。言い換えれば、彫刻が台座から離れ、ノマド化したというよりも、その切断を可能にし、ノマド化に拍車をかけた媒体こそが写真だったのではないか、ということである。」この文章は当時登場してきた風景を造形化する環境彫刻が念頭にあります。有名なのは海岸に渦巻き状の造形をしたロバート・スミッソンで、作品を撮影することで成立した一例です。もう一人、ディヴィッド・スミスの彫刻を取り上げます。「スミスはそもそも画家を志していたのだが、1931年からファウンド・オブジェを用いた立体作品の制作を開始。1933年、フランスの美術雑誌『カイエ・ダール』に掲載されていたフリオ・ゴンザレス(1876-1942)の溶接彫刻を見たことをきっかけに、鉄の彫刻に着手する。~略~スミスの作品を語る際、くりかえし強調されてきたのは、その二次元性である。スミスと同世代の批評家、クレメント・グリーンバーグによれば、『モダニズムの〖還元〗の下、彫刻は、絵画それ自体と同じほどに、その本質においてもっぱら視覚的と言い得るものとなった』。彫刻においてもまた『〖純粋性〗への欲求は、まったき可視性にいっそうの重きを置く一方で、触覚的なものとそれから生じる重量感や不透過性といった連想を軽視する、その方向で機能する』(新しい彫刻1958年)~略~撮影に際しては下から作品を仰ぐようにカメラを据え、台座部をなるべく写さず、彫刻が宙に浮いているように見せることを好んだ。背景の丘の木の高さに彫刻の端を近づけるなど、周囲の景色をよく取り込んだ写真も多い。スミスが写真に拘ったのは、その二次元志向はともあれ、一つには自作についての人々の理解を高めるためだった。出版によって、展覧会を訪れていない人にも自作をよく知ってもらうための工夫を、写真にも凝らそうとしたのである。」この考え方は私も同じで、私が毎年図録を作っているのは自作の広報のためでもあると思っています。私にとってアナログな彫刻と同じくらいデジタル画像が大切なのです。今回はここまでにします。