Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

「再びパラオへ」について
「土方久功正伝」(清水久夫著 東宣出版)の第五章「再びパラオへ」の気になった箇所を取り上げます。「パラオに戻って来て約1ヵ月、久功もパラオ・コロールの生活にも慣れてきた。しかし、久功にとって、コロールの変わりようは実に嘆かわしいものであった。~略~コロールでは、丘が崩され、一面に家が建ち、8年前には、いつも、どこでも鳴いていた銀鳩の声がきかれなくなったこと、広々としたア・ケヅは、家にさえぎられて見晴らしはなく、家のないところは掘り返されて野菜畑となり、赭土の丘には一本の蛸の木も残っていないこと、昼も夜も恋の歌や流行歌を歌っていた島民の若者達、夕方になると家々の石畳に蹲まって笑いさざめいた娘達、夜になり円かな月が上がると、歌と一緒に心ゆくまで踊った娘達の姿が見られなくなったこと、かつては、島民達は豊かで、どの家に行っても新しい茣蓙が敷かれ、籠から房ごと出されたバナナやパパイヤや密柑が、今では町の店々に商品として並べられていることが書かれている。」この章では大きな出会いが2つありました。「昭和15年(1940)1月26日、コロールに着いた笠置丸で、赤松俊子(のちの丸木俊)がパラオに来島した。赤松が日本を発ったのは前年の12月であった。途中ヤップ島をはじめとするいくつかの島へ寄って、この日パラオへ着いたのである。翌日、役所に久功を訪ねて来た。赤松は、コロールに滞在し、創作活動をしたが、展示する作品がある程度出来上がったのであろう、3月5日、展覧会開催依頼のため、役所に来て久功と会った。」もう一人は作家中島敦でした。「中島敦がパラオへ来たのは、昭和16年(1941)7月6日の午前であった。6月28日に敦の乗ったサイパン丸は横浜港を出港したあと、サイパン、テニヤン、ヤップの島々に寄港して、8日後コロールに着いた。その日は日曜日であったが、南洋庁地方課の職員4、5人が出迎えに来ていた。中島敦は、8年勤めた横浜女学校の教諭の職を辞し(当初は休職)、南洋庁内務部地方課国語編集書記としてパラオに赴任してきたのだった。仕事は、島民用の国語教科書の編集だった。」中島敦は久功と親しくなりましたが、度々健康を害し、久功と一緒にサイパン丸で日本に帰国することになったようです。