Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「戦後東京の生活」について
「土方久功正伝」(清水久夫著 東宣出版)の第八章「戦後東京の生活」の気になった箇所を取り上げます。「年が明けた昭和23年(1948)1月9日、敬子の弟・川名嵩久が土田村を訪れた。医師である嵩久は、2月に勤務する病院を辞め、世田谷に家を建て開業するので、思い切って上京して一緒に住まないか、と話した。~略~終戦からまだ間がなく、交通事情は劣悪であったが、3月12日、久功達は世田谷・豪徳寺の嵩久のところへ引っ越してきた。望んでいた東京生活が始まった。~略~5月に入る頃から久々に木彫レリーフを手掛けた。1週間ほどで、『罎から飲む二人の子供』を彫り上げた。6月には『パンの実を持っている子供』、7月には『足を投げ出した子供(パラオ・ベルブルト)』、『両手を頭にあげた女の立像』を制作した。いずれも、力のこもった秀作である。久功は、これまで長い空白を埋めるかのように、精力的に木彫レリーフの制作に取り組んだ。」漸く美術家として動き出した久功は個展をやることになりました。「そして、この年4月、日本橋の丸善画廊で、戦後初の個展を開いた。この個展は、木彫レリーフ36点、立体彫刻1点、マスク9点の、旧作、新作のすべてを展示した回顧展となった。毎日新聞には、『稚純、孤高、清潔、都会人にはオアシスのような作品展』と評された。」久功は2回目の個展を同会場で開きました。「展覧会が始まる3日前、久功は美術学校の同窓で、近くに住む彫刻家の村田籐四朗に伴われて高村光太郎を訪問し、展評を書いてもらうよう頼んだ。」高村光太郎は展覧会場下の喫茶店で原稿を書いてくれたようです。「久功は、つてを求めて、その原稿をすぐに朝日新聞社の学芸部へ持ち込んだ。そして個展の2日目、21日の朝日新聞の学芸欄の真中に、三段抜きで大きく高村光太郎の個展評が写真入りで掲載された。そこで、光太郎は、『現代化した原始美』と評し、『浮彫木彫の常識を破って映像を平たく平たくと逆に彫ってあるのは興味があり、この手法にも成功している。一般木彫家の一見に値する。』『兎に角見る者の心を明るくする展覧会だ』と書いている。」今回はここまでにします。