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「クレメンス八世治世下のローマ画壇 」について
「カラヴァッジョ」(宮下規久朗著 名古屋大学出版会)の第2章「1600年前後のローマ画壇とカラヴァッジョ」の中の「2 クレメンス八世治世下のローマ画壇 」の気になった箇所を取り上げます。「クレメンス八世(在位1592-1605)は反宗教改革の熱心な推進者であり、その治世下は美術史上きわめて多産で重要な変革期となった。~略~1600年の聖年に備えて多くの枢機卿がローマの教会を増改築し、装飾させた。反宗教改革の成功を祝すかのような盛大な造営や装飾事業が見られ、それらがバロック美術を開花させる契機となったのである。大規模な美術活動の中心となったローマには、仕事の機会を求めてイタリアのみならずヨーロッパ中から多くの才能ある芸術家が集まり、諸流派が混交して新たな美術が生み出された。その結果、18世紀半ばまでローマが西洋美術の中心地となった。」こうした動向を私はよく知らず、バロック美術に対して貧困な知識しか持ち合わせていないことを恥じています。「世紀のかわり目には、イエズス会においても血生臭い殉教を強調する必要がなくなり、美的な鑑賞に適したものが好まれるようになった、つまり反宗教改革の闘争的な精神がすでに和らいでいたことがわかる。こうした、『移行期』の画家たちとカラヴァッジョとの関係については、ほとんど明らかになっていない。しかし、カラヴァッジョは1603年の有名な『バリオーネ裁判』において、ローマ中の画家を知っていると証言していることから、同時代の作品には敏感に反応していたと思われる。~略~彼は同時代の後期マニエリスムや折衷派の画家を高く評価しているにもかかわらず、従来の研究では、ロンバルディアの伝統やミケランジェロやラファエロの古典が彼の画風に果たした役割を強調するあまり、同時代の画家の影響を軽視するきらいがあった。また、当時のローマ画壇については、本格的な研究がなされてこなかったという事情も、両者の関係を不明瞭にする一因となっている。16世紀末、教会や宮殿において膨大な美術作品が生産されたにもかかわらず、質的な低さのゆえに研究が立ち遅れ、その全貌や画家の事蹟についてはいまだ不明瞭な点が多い。」今回はここまでにします。