Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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「鉛・鉄・石膏 陶然とさせる空間」
昨日の朝日新聞夕刊に掲載されていた記事より抜粋いたします。先日、見に行った武蔵野美術大学美術館で開催されていた「若林奮 森のはずれ」展。夕刊に大きな紙面を使って取り上げられていました。「表面が鉛で覆われた鉄製の10畳ほどの空間。とくればシェルターかと思う。今展で、約30年ぶりに展示されている『所有・雰囲気・振動ー森のはずれ』(1981~84)、通称『鉄の部屋』のことだ。しかし寡黙にして思索的な作風で知られた彫刻家の若林奮(1936~2003)の問題作は、そう単純ではない。~略~70年代後半になると自身と対象との(存在論的な?)距離を測るための尺度として『振動尺』なる鉄の角材状の連作彫刻を制作。今回も4点が並ぶが、凹凸や突起を備えた姿には尺度らしからぬ緊張感と構成美がある。~略~若林の思考を正確に把握することはやはり難しい。しかし振動尺も鉄の部屋も、石膏の立体や平面も、見る者を陶然とさせる魅力を備える。この視覚表現の醍醐味は、宇宙や自然の中で自分の位置を測り続けようとした骨太の探求があってこそと思えてならない。」(大西若人著)この記事に「緊張感と構成美」や「陶然とさせる魅力」という言葉があるように、これは美術作品であることを改めて認識する必要があります。若林先生の思索の迷宮に入り込んでしまうと、これが彫刻であり、美術であることを一瞬忘れてしまうのは、私だけでしょうか。私は学生の頃から、若林先生の作品は(先生が彫刻科教授であったために)、範疇として彫刻分野にあるという捉えをしてきましたが、西洋の古代から脈々と続く彫刻とは異なり、何か得体のしれない物体であると正直に思っていました。モノの存在とか現象とかの思索を私も欲するようになって、ハイデガーやらフッサールの学問に足を突っ込んだのも、若林ワールドが契機になったと言えます。それで何が分かったのか、些か自論を展開するのは心許ない次第ですが、素材と向き合う創作活動と渾然一体となった思索は必要だと認識したことは確かです。展覧会場で図録を予約しました。今月末に図録が届きますが、それを読み解いて、再びNOTE(ブログ)に書こうと思っています。