Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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note > 留学
2007.04.19

プッチーニの作曲したオペラに「ラ・ボエーム」があります。イタリア歌劇の中ではよく演奏されるオペラのひとつです。今日職場でひょんなことからオペラの話になり、このリリシズムあふれる「ラ・ボエーム」を聴いた…[続きを読む]

2007.03.24

ギリシャでは、いくつかの遺跡にしぼって観に行くことにしました。帰国の日が迫っていたので仕方がないと思っていました。デルフィは山麓にあって、岩肌と神殿の柱が風景に溶け込んでいました。いわば自然と人工の産…[続きを読む]

2007.03.23

1985年の終わり、ギリシャのアテネにいました。あの頃はパルテノン神殿のすぐそばまで近づくことができました。神殿内には鎖が張ってあって入れませんでした。トルコの遺跡では柱の合間をくぐることができたのに…[続きを読む]

2007.03.22

紀行作家みやこうせいさんのお勧め、シキノス島はエーゲ海の島々の中でもマイナーな島で、観光船から海上で小舟に乗り換え、その小さな島へ着岸したのでした。レストラン兼土産店を営む海岸沿いの店に泊まることにな…[続きを読む]

2007.03.21

1985年トルコ・ギリシャの旅が3ヶ月になろうとしていました。ロードス島はアニメに登場するような名称が気に入って、滞在することにしました。ここで印象に残ったのは城壁です。ちょっとした広場があって、まる…[続きを読む]

2007.03.20

昨年は柱を彫刻の要素として、ひたすら作りました。柱に興味を抱いたのはヘレニズム文化の影響かもしれません。そのヘレニズムより古い時代に作られたクノッソス神殿。小さなクレタ島にあるというだけで神秘性を持っ…[続きを読む]

2007.03.19

1985年に旅したトルコ・ギリシャ。4月の個展が近づくにつれ、展示する作品の多くがこの旅でイメージを培われたことを思うと感慨一入です。2ヶ月以上に及んで滞在したトルコを後にして、ギリシャのクレタ島に向…[続きを読む]

2007.03.13

黒海沿岸のトラブゾンに到着したのはトルコに来て2ヶ月を過ぎていました。ここで印象深かったのは焼き魚でした。イスタンブール同様に港で魚を焼いていて、その一匹をタダで頂きました。よほど金銭がない旅行者に見…[続きを読む]

2007.03.12

学校で学んだ歴史に古代の四大文明があり、そのひとつがチグリス・ユーフラテイス文明です。そのチグリス河流域の町デイヤルバクルに着いた時は、頭痛と腹痛に見舞われ、ホテルに4日間倒れこんでいました。家内も同…[続きを読む]

2007.03.11

トルコの東アナトリアに位置する標高2150Mのネムルト山頂に遺跡があると聞いて、現地でミニバスツアーに参加しました。私たち夫婦の他に西欧から来た数人の旅行者がいました。小さなバスで山頂を目指し、やがて…[続きを読む]

2007.03.10

カッパドキアを知ったのは学生時代に神田の古本屋街で立ち読みした古い美術雑誌に掲載されていた白黒写真からでした。地球上のものとは思えない不思議な世界に驚いて、思わずその古本を買ってしまったのでした。その…[続きを読む]

2007.03.09

トルコで一度は行ってみたいと思っていたのが、公衆浴場(ハマム)でした。カッパドキア観光のついでに寄ったユルギュップという小さな町で、このハマムを体験しました。公衆浴場と言っても日本の浴場とは異なり、腰…[続きを読む]

2007.03.08

トルコの地下都市を訪ねたのは20年以上も前のことなので、記憶が徐々に風化しています。訪ねた地下都市の名称はカイマクルとデリンクユでした。どちらがどうだったか忘れてしまいましたが、蟻の巣のように地下へ続…[続きを読む]

2007.03.06

1985年晩夏、5年間住んだウィーンの住宅を引き払って、ヘレニズム時代の都市遺跡を見にトルコやギリシャに数ヶ月の旅に出ました。交通手段はもっぱらバスと徒歩でした。ヒッチハイクもしました。何といっても遺…[続きを読む]

2007.02.28

TBS「世界遺産」を見ていたらトルコのパムッカレが映し出されたので、思わず声を上げてしまいました。20数年前にあそこにいた、と家内に言ったら、私はあの古代都市ヒエロポリスで結婚指輪を失くしたのよ、と答…[続きを読む]

2007.02.27

イスタンブールで病みつきになった料理はフイッシュバーガーでした。それも獲れたての魚をその場で揚げて、パンに挟んだ野趣あふれるものです。それはヨーロッパとアジアを繋ぐボスフォラス海峡のガラタ橋近くに舟を…[続きを読む]

2007.02.26

イスタンブールに着いた初日に手に入れたキリムはかなり大きくて、これを巻いてリュックの上に括りつけて行動することになりました。数ヶ月の旅を考えると重荷でした。もともとキリムは遊牧民のものなので、野宿もで…[続きを読む]

2007.02.25

1985年夏にウィーンからイスタンブールへバスで深夜に乗りつけて、閉まったホテルの玄関前に野宿した後、バザールに見物に行きました。イスタンブールは混沌とした賑やかな街でした。絨毯商は皆そろって日本語が…[続きを読む]

2007.02.24

20歳代の終わりにウィーン生活を切り上げて帰国することになり、美術アカデミー修了を待って、数ヶ月の旅にでることにしました。1985年の夏から冬にかけてのことです。当地で生活費を賄っていたので、そんなに…[続きを読む]

2007.01.26

かつて住んでいたウィーン10区のアパートから歩いて5分程度のファボリーテン通りに、エイリアンの棲家のようなメタリックな建物が出来ました。オットー・ワーグナーのような前世紀の建築群との調和を図った建築家…[続きを読む]

2007.01.25

再びウィーン幻想派の話です。自分がいた頃の美術アカデミーにはハウズナーの他に、A・レームデンがクラスを持っていました。同じ幻想派でもハウズナーとはテーマが異なり、戦争体験を基にした風景を描いていました…[続きを読む]

2007.01.19

ウィーン幻想派の話です。ウィーン美術アカデミーに学んでいた20数年前に、ハウズナーを1度だけお見受けしたことがあります。ハウズナーはウィーン幻想派の画家の中でも最年長でリーダー的役割をしていました。画…[続きを読む]

2007.01.17

ウィーン幻想派の画家の中で、ウィーンの街中のギャラリーに作品があるのがE・フックスの銅版画です。フックスは煌びやかな油彩画を多く描いていますが、モノクロの銅版画にも力量のある画家だと思います。フックス…[続きを読む]

2007.01.16

ウィーン美術アカデミーに学んでいた当時、同校にハウズナー教室とレームデン教室があって、とくにハウズナー教室には毎年のように邦人画家が聴講生としてやってきて制作をしていました。もうかれこれ30年も前にな…[続きを読む]

2007.01.13

ウィーン美術史美術館にはブリューゲルだけの部屋があって、代表作がたくさん観られます。そんなことも知らずにウィーンに行き、この農民画家に出会った時は、息を呑むほど驚いて、ただひたすら見入ってしまいました…[続きを読む]

2007.01.12

みやこうせいさんの写真を久しぶりに見て、ウィーン美術史美術館にあったP・ブリューゲルの絵画世界が現存しているかのような印象を持ちました。自分もかつてみやさんと一緒にそこにいたのですが、現在生活している…[続きを読む]

2007.01.10

ウィーン分離派は、自分にとってどのようなものかを考えてみると、予備知識もないままウィーンに住んで初めて知った革新的な芸術運動で、その美的なるものに感動を覚えたのが分離派でした。現代は芸術の捉え方、表現…[続きを読む]

2007.01.08

昨年のブログに、ウィーン美術アカデミーの窓から、鉄製の植物を模った球体のオブジェをのせた不思議な建物が見えていたと書きました。このブログでウィーン分離派のことにも触れたと思いますが、この分離派の中心的…[続きを読む]

2007.01.06

自分がウィーン美術アカデミーに学んでいた頃、フンデルトワッサーが教室をもっていたので会いに行ったことがありました。フンデルトワッサーは絵画に留まらず、陶芸やタペストリーを制作していました。とくに建築に…[続きを読む]

2007.01.05

ウィーンの中心に近いところに青果市場(ナッシュマルクト)があります。その青果市場から、オットー・ワーグナーがデザインした住宅2棟が見えます。当時流行したユーゲントシュテイール様式の植物模様が壁面いっぱ…[続きを読む]

2007.01.04

20代でウィーンに住んで、いろいろな芸術家から刺激をもらいました。帰国後、長い時間をかけて自分なりに刺激を受けたモノを噛み砕き、理解しようと努めてきました。これらが今の作品に繋がっていると思います。そ…[続きを読む]