Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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note > 留学
2007.01.02

ウィーンムジークフェライン(楽友協会)でのニューイヤーコンサートの模様が毎年TVで衛星中継されます。1980年から85年まで住んでいたウィーンで、このニューイヤーコンサートは何度も立見席で聴いていまし…[続きを読む]

2006.12.25

ヨーロッパに住むとキリスト教の存在に圧倒されます。クリスマスの礼拝もそのひとつですが、ヨーロッパの宗教世界の原形が残っているかのような素朴な精神性をもっていたのがルーマニアで迎えたクリスマスでした。ま…[続きを読む]

2006.12.24

ウィーンで迎えたクリスマスは地味ながら、しっとりとした落ち着いたクリスマスでした。イエス・キリストの誕生を祝う神聖な日だからこそ、家族で団欒をして心安らかに過ごすというものでした。日本のようにケーキの…[続きを読む]

2006.12.23

10区のプッフスバウム通りというのがウィーンで長く住んだ場所でした。このあたりは外人労働者が多く住んでいましたが、治安は悪い方ではありませんでした。地下鉄Uー1の終点であるロイマン広場から何本か延びた…[続きを読む]

2006.12.22

ベートーベンは生涯50数回も引越ししたと言われていますが、それほどではないにしろ自分もヨーロッパでは数回の引越しを経験しています。初めはドイツのバイエルンにある全寮制の語学学校、次に語学学校のクラスメ…[続きを読む]

2006.12.21

立体作品は作られた物質だけでなく、周囲の空間をも作っているという概念をもったのは海外での生活体験からでした。日本の大学で彫刻を学んでいた頃は、彫刻そのものの構造や量感を捉えるのが精一杯で、その彫刻が置…[続きを読む]

2006.12.20

自分が行く前からウィーンで暮らしていた留学生仲間が、古くなった住居の壁に平織りの絨毯を張り巡らして独特な空間を作っていました。平織りは幾何模様があったり、動物や人物が象徴的に単純化されていたりして、そ…[続きを読む]

2006.12.19

所謂「蚤の市」で、日本でも最近はあちこちでこうしたフリーマーケットが開かれています。その先駆けとも言うべきヨーロッパのマーケットはかなり歴史があって、自分の留学生時代には盛んに行われていました。ウィー…[続きを読む]

2006.12.18

ドイツ語ではユーゲントステイールと言っていました。20世紀初頭に流行した美術様式で、建築から工芸品にいたるまで、それとわかるフォルムをしています。植物の葉・茎や蔦の曲線をデザインに取り入れて、自然に独…[続きを読む]

2006.12.14

1980年代にウィーンに住んでいたので、まだソビエト連邦を中心とする共産圏が隣国にありました。ハンガリーや旧チェコスロバキアに出かけていくと、広場にはよく労働者や兵士を賛美する具象彫刻のモニュメントが…[続きを読む]

2006.12.13

自分の作品が具象傾向から抽象化していく過程で、歯車という具体的なイメージを使ったのは、あるいは本当の意味で抽象化と呼べるかどうかわかりません。ウィーンではアールヌーボーやアールデコ様式がよく目につきま…[続きを読む]

2006.12.12

凹凸のついた歯車をよく自分のモチーフに使います。螺旋や渦巻きと違い、若い頃から自分の作品に繰り返し出てくる要素です。具象の作品から出発して、人体を離れる契機になったのが歯車の使用でした。歯車は具象とし…[続きを読む]

2006.11.20

羊の肉は苦手です、と言うか苦手になってしまいました。かなり昔ウィーンの住宅を引き払った時に、エーゲ海沿岸に展開したギリシャ遺跡を見に3ヶ月余りトルコやギリシャを旅したことがあります。そのトルコで食傷す…[続きを読む]

2006.11.18

ギュンター.シュナイダーシームセンは様々なオペラの舞台デザインを手がけた人です。具象的な作風でしたが、スケールが大きく遠近法を巧みに用いた迫力ある舞台でした。カラヤン指揮による壮大なオペラにシュナイダ…[続きを読む]

2006.11.17

ウィーン国立歌劇場の立ち見席で何度もオペラを観るうち、歌唱の巧みさがわかってきました。観客は正直なもので、実力派歌手が出演するオペラは立ち見席の窓口に長い列ができました。歌劇場を一回り以上の長蛇の列が…[続きを読む]

2006.11.16

初冬の季節になると情緒豊かなウィーンの街並みが寒々と夕暮れていく情景が目に浮かびます。オペラが上演されるのは国立歌劇場ばかりではなく、フォルクスオパーやもっと小さな劇場でも雰囲気に応じた演目がかかりま…[続きを読む]

2006.11.15

まるでロシアのリアリズム絵画を見ているような舞台。群集の合唱に圧倒され、クレムリン宮殿の豪華な広間の隅々にもリアルを追求した大道具や小道具が置かれ、まさにロシアの歴史に遭遇しているような錯覚に陥ります…[続きを読む]

2006.11.13

ウィーンで初めて観たオペラはR.シュトラウスの「エレクトラ」でした。下調べもせず、音楽留学生から立ち見席のことを聞いて、まず飛び込んだ劇場でやっていた演目が「エレクトラ」。真っ暗な舞台。登場人物も少な…[続きを読む]

2006.11.12

音楽評論を読むとこの「魔笛」の筋書きには、当時モーツアルトが関わった秘密結社なる存在もあるのですが、そんなことを気にせずに観た「魔笛」は音楽や舞台装置、衣裳のデザインがとても楽しく、おそらく5年間のウ…[続きを読む]

2006.11.10

ウィーンに住んでクラシック音楽に接しないのは愚の骨頂のような気がしてコンサートにはよく出かけました。幸い立ち見(というか立ち聴き)があって安い料金で一流の音楽が堪能出来ました。爪に火をともす生活をして…[続きを読む]

2006.11.09

美術的興味からウィーンに暮らし始めたのですが、ここが世界的に有名な音楽の都であることはよく知っていました。美術留学生は一握り、ところが音楽留学生は音大に行くと、ここは日本じゃないかと思えるほどたくさん…[続きを読む]

2006.11.08

音楽家の家系か、親が特別な趣味を持っていない限り、クラシック音楽が身近にあることはありません。職人家庭に育った私は歌謡曲や浪花節の方が身近でした。妹が音大に進んだのですが、それでもクラシック音楽を身近…[続きを読む]

2006.10.26

横浜市の教員向けの研究会でオーストリアの教育システムについて講演をしたことがありました。オーストリアは日本と違い、一斉に9年間の義務教育があるわけではなく、早い時期に職業技能を身につける学校に進む方法…[続きを読む]

2006.10.25

ウィーン美術アカデミーは母校です。とはいえ、やはり外国人である自分は学生同士の繋がりも希薄だったため、日本の学校のように胸を張って母校と言えないところがあります。でも1980年代に在籍していました。学…[続きを読む]

2006.10.24

このところ朝晩めっきり冷え込んできました。こんな季節になるとヨーロッパに暮らしはじめて嫌気がさした長く暗い冬のことを思い出します。夕方4時になると辺りは暗くなり、釣瓶落としの如く夜の帳がおりて、翌朝は…[続きを読む]

2006.10.22

アルテ・ピナコテークはヨーロッパに渡って初めて観た大規模な美術館でした。パリのルーブル美術館でもなく、イタリア各地の美術館でもなく、このミュンヘンの美術館が自分の脳裏に最初にすり込まれた西洋絵画になり…[続きを読む]

2006.10.21

ドイツに渡って、まずスーパーマーケットで買ったのが牛乳とチーズでした。牛乳は「ブッターミルヒ」、つまりバターミルクが名前からして美味しいはずだと疑うことなく買いましたが、一口飲んで思わず吹き出しました…[続きを読む]

2006.10.20

1980年に初めてドイツに渡り、語学を学ぶため通っていたゲーテ・インステイテュートで、フュッセンにあるノイシュバンシュタイン城を初めとするバイエルン王が作った城や劇場を見て回る遠足がありました。多国籍…[続きを読む]

2006.10.19

ドイツのバイエルン州のある小さな町で、かつて画家カンデインスキーがひと時暮らしたことがあります。そのムルナウには外国人のための全寮制のドイツ語学校がありました。ゲーテ・インステイテュートという学校でド…[続きを読む]

2006.10.15

ザワークラウトはキャベツの酢漬けです。ヨーロッパで美味しいと思った料理のひとつです。ザワークラウトを小さく刻んだ肉と混ぜて煮込んだものが特に好きでした。よくスーパーマーケットで瓶詰めされたザワークラウ…[続きを読む]

2006.10.14

ウィーンの学生食堂で、中華あんまんを売っているのか?と誤解したのが、この「ゲルムクヌーデル」でした。訳すと「イーストの入ったダンゴ」。確かに中華あんまんに近いものでした。中味の餡は芥子の実が原料と思わ…[続きを読む]