2017.07.29 Saturday
家内の亡父が17回忌となり、今日は横浜の久保山墓地に花と線香を手向けに出かけました。親戚も高齢化してなかなか集まれない状況の中で、私たちだけでも墓参りをしてきたのでした。横浜市南区にある久保山墓地は古い墓地で、第二次世界大戦で戦死した慰霊墓地もあり、歴史を感じさせるところです。新しく出来た公園墓地のように、分かり易く区分けされているわけではないので、茶屋の傍まで車で行くのは難儀しますが、暑い中を歩くのを避けて今日は車で行きました。私の母方の祖父母も久保山墓地に眠っています。家内の両親や私の父が他界したのは全て7月でした。法事といえば今まで茹だるような暑さの中でやってきました。今日の墓参りも猛暑で汗が滴りました。午後は工房に出かけましたが、新作に手をつけられずに早めに自宅に戻ってきました。新作の大きなテーブル彫刻は、今年個展で発表した「発掘~宙景~」と一緒に作り始めていたので、3分の1くらいは出来上がっています。ただし、途中からイメージを変更したので、「発掘~宙景~」より、さらに力の篭った作品になる予定です。新作は宙吊りされる陶彫部品だけではなく、床置きの陶彫部品があって、宙吊りと床置きとが繋がっていくイメージなのです。以前発表した「発掘~増殖~」に似た床置きの部分になるのかなぁと思っています。それを今夏、成形まで終わらせておきたいと考えていて、それはそれで制作工程からすれば厳しいノルマを課すことになっています。7月も終わりに近づき、RECORDの未完成も気になっているところです。自宅の食卓に山積みしているRECORDの彩色や仕上げを急ぎたいと思っています。
2017.07.28 Friday
今日は勤務時間終了後に映画を観に行くことに決めていました。夕方になって私一人で東京神田の神保町まで足を伸ばしました。今晩は常連にしている横浜ではなく、ミニシアターの聖地とも言える岩波ホールに行ったのでした。アンジェイ・ワイダ監督の遺作「残像」が今日まで上映していたので、岩波ホールの最終上映時間に滑り込みました。アンジェイ・ワイダ監督が昨年10月9日に享年90歳で亡くなり、そのうちきっとワイダ・ワールドを上映するはずだと思っていました。私は20代の頃にいたウィーンの場末の映画館で「地下水道」をドイツ語翻訳版で観ました。その時、社会体制に歯向かう反骨精神に溢れたドラマに一気に魅了されてしまいました。映画は娯楽ばかりではなく、イデオロギーをもった表現であることを知って、そこから紡ぎ出す物語性に感動を覚えました。昨年アンジェイ・ワイダ監督の訃報を受けて、その思いをNOTE(ブログ)に書いたこともありました。岩波ホールで「残像」が観られたことが今日一日を充実したものにしてくれたと思っています。「残像」はポーランドに実在した前衛画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキの物語で、社会主義政権の弾圧に最後まで屈せず、芸術の自由な理念を貫いた半生を描いています。アンジェイ・ワイダ監督の言葉が残されています。「私は、人々の生活のあらゆる面を支配しようと目論む全体主義国家と、一人の威厳ある人間との闘いを描きたかったのです。一人の人間がどのように国家機構に抵抗するのか、表現の自由を得るために、どれだけの対価を払わなければならないのか、全体主義国家で個人はどのような選択を迫られるのか、これらは過去の問題と思われていましたが、今もゆっくりと私たちを苦しめ始めています。」キナ臭くなっていく世界情勢や日本の状況を鑑みると、冷戦当時とは違う手枷足枷が私たちに纏わりついているように思えてなりません。映画の内容に関する詳しい感想は後日改めたいと思います。そのうち横浜のミニシアターにも「残像」はやってくるでしょう。
2017.07.27 Thursday
今朝、職場に届いていた朝日新聞を捲っていたら、表題の小欄が目に留まりました。生物学者福岡伸一氏が書いたもので、「伊勢神宮と法隆寺、どちらが生命的だろうか?」という唐突な冒頭の文に誘われて、つい読んでしまいました。伊勢神宮は20年に一度新たに建て替えるのに比べ、法隆寺は世界最古の木造建築をそのまま保存しています。ですが、法隆寺は部材を少しずつ更新しているのです。福岡氏は「ちょっとずつ変える後者の方がより生命的ではないか。」と主張しています。生命は絶えず分解と合成を繰り返しているので、全取り換えは生命的ではないというのです。これは小欄ながら面白いなぁと思いました。破壊と創造は芸術家の特権で、生命感溢れるものを作るためにどの時代の芸術家も粉骨努力しています。多くの芸術家は、常に自己表現を破壊して新しい境地に達そうと紆余曲折の毎日です。私のその一人ですが、今まで培った全てを破壊する勇気はなく、それでも小さい部分を更新すれば伸びしろがあるのではないかと信じています。小欄にこんな一文もありました。「ところで世間では、しばしば、解体的出直し、といったことが叫ばれるが、解体しなければニッチもサッチもいかなくなった組織はその時点でもう終わりである。そうならないために、生命はいつも自らを解体し、構築しなおしている。つまり(大きく)変わらないために、(小さく)変わり続けている。そして、あらかじめ分解することを予定した上で、合成がなされている。」絶えず小さな破壊を繰り返して再生していく生命体。私も私の作品も生命的でありたいと願う毎日です。
2017.07.26 Wednesday
横浜に住む文筆家笠原實先生から、個展の感想が書かれた手紙をいただきました。因みに笠原實先生は私の恩師です。毎年東京銀座まで足を運んでいいただいて、その場でお会いできなければ、後日感想を手紙にしていただいているのです。今年もこんな手紙が届きました。「永年の地下構築作業も終わり、しっかりした台座の上に、いよいよ発展の時期を迎えましたね。地上の錯綜する想いに意識の架橋を試み、その統一の上に、未来への挑戦を託すかのように理解しました。」その後に論語の言葉が書かれていました。「不知命 無以為君子也」という書き出しだけがありましたが、これは「不知命、無以為君子也 不知礼、無以立也 不知言、無以知人也」の冒頭の部分です。つまり「天命を知らなければ、君子としての資格はない。礼を知らなければ、世に立ってゆくことはできない。人のことばを聞いて、その本心が見抜けないと、人物のよしあしを知ることはできない」という意味で、もうひとつの仕事である横浜市公務員管理職としての資質を問うコトバとして、私には響きました。作家と管理職、実は笠原先生も同じ立場を経験している恩師なのです。私の作る彫刻に未来への挑戦を見取り、それが管理職として組織を率いる指針になっているのではないかと思ってくれていると勝手に解釈させていただきました。有難うございました。このコトバを今後のパワーに変えて、さらに二足の草鞋双方で頑張っていきたいと思っています。
2017.07.25 Tuesday
自宅の書棚に眠っていた書籍を取り出して、何を読もうか思案しました。「奇想の系譜」(辻 惟雄著 筑摩書房)は今も継続して読んでいますが、何か西欧の芸術に纏わるものが読みたくて、書棚を見たところ2冊の書籍に目が留まりました。「スーラとシェレ」(セゴレーヌ・ルメン著 吉田紀子訳 三元社)と「マルセル・デュシャン全著作」(ミシェル・サヌイエ編 北山研二訳 未知谷)です。書籍の薄さから言えば「スーラとシェレ」を鞄に携帯するのがよいと思って、まず「スーラとシェレ」を読み始めました。「マルセル・デュシャン全著作」も今日職場に持参してきて、休憩時間にでも折に触れて読んでいこうと思っています。因みに「マルセル・デュシャン全著作」はデュシャンの創作に関するメモや散文があって、目で活字を追うだけで難航しそうな気配ですが、「スーラとシェレ」は19世紀のフランスを席巻した多色刷りポスターや広告文化を、画家スーラとデザイナーであったシュレを中心に論じたもので、テーマになったサーカスや大道芸の特異な世界に視点を据えています。内容の理解では「スーラとシェレ」の方が通勤に向くのではないかと推察しました。最近は西洋と日本の二つの論評を交互に読んでいくのが、私の癖になっていて一冊集中主義ではなくなりました。この傾向はどれも中途半端になって、過去の学生時代の乱読癖に先祖返りしてしまうのを私は怖れています。ともかく「スーラとシェレ」を読んでいきます。19世紀印象派が登場したフランス気分に浸りながら…。