2017.12.22 Friday
職場独自で設定した三連休の前日に、職員全員と会食する機会を持ちました。私はこの職場では定番になっている管理職の大鍋提供サービスを行いました。今日作ったのは山梨県の郷土料理ほうとうです。ほうとうは、戦国武将武田信玄が仏僧から製法を聞き、陣中会に取り入れたことで有名になり、後に農民によって郷土食として定着したものです。さらに歴史を遡れば、ほうとうの起源は奈良時代に大陸から伝来した唐菓子に由来するようです。それは言わば殻粉製の菓子で、小麦粉等を捏ねて油で揚げたり、焼いたり、蒸したもので、伝来当初は宮廷で食されていたものが、庶民に広まり、団子や饅頭や煎餅に姿を変えていきました。その中にほうとうもあったようです。職場で作ったほうとうは、ほうとう麺とカボチャをふんだんに入れた鍋で、皆さんに喜んでもらえました。私は食事を囲んでコミニュケーションを図ることを大切にしています。私の職場でも多少の縦系列がありますが、同じ鍋を囲むことで横の連携が生まれるのです。仕事をやっていく上で仲間と十分な連携が図れることは、その成果は何倍にも膨れ上がります。安心・安全な職場環境もそんなコミニュケーションあってこそと思っています。職場に比べて創作活動は私にとって孤独な作業です。若いスタッフがいても私一人が自分自身のために考えて制作をしています。スタッフと食事をする場面はありますが、職場の雰囲気とは違います。工房のスタッフは同じ美術を専門にしているという共通する認識があり、職場のような気遣いが不要という利点もあります。いろいろな専門職が集まった集団の中で、今日はほうとう鍋を囲んでそんなことを思っていました。
2017.12.21 Thursday
現在、通勤中に読んでいる「触れ合う造形」(佃堅輔著 西田書店)と、職場に持ち込んで休憩中に読んでいる「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)は、19世紀から20世紀初頭という時代を反映した芸術家の思索に富む書籍です。私は20代の頃から、この時代のドイツが果たした役割が大好きで、まだヒトラーが台頭する以前の、革新的で豊かな時代を想像してきました。ドイツ表現派の特徴である遠近法を無視したギクシャクした画面構成に、最初私は違和感を覚えていたにもかかわらず、大学で学ぶ写実的な人体塑造に何故かやるせなさを感じ始め、不自然と思える表現派の絵画に惹かれていきました。あるいは写実に徹底できなかった私の現実逃避だったかもしれません。一応写実を見極めたいと思っていた私は、具象表現以外は封印したはずでしたが、キュビズム、シュルレアリスムやら表現派、もっと前衛的な美術界の動きにワクワクしていたのでした。とりわけカンディンスキーの理論に魅了されてしまい、当時学んでいた彫塑の他に、独学で表現派紛いの版画に手を染めました。その頃、具象を推し進めて多面化や象徴化を図ったキュビズム以降の芸術家と、カンディンスキーの非対象理論は一線を画しているのではないかと思い始めました。ドイツ表現派は精神分析を基盤にして敢えて不自然な状況を作る芸術家が多かったように思いましたが、この一群もカンディンスキーの非対象理論とは異なっていると思っていました。さらにその表現の枠組みさえ破壊していく1960年代の芸術運動が台頭してきて、表現そのものを問う混乱が現在も続いていると感じています。私はドイツ表現派を現代美術への足掛かりにして、40年間あれこれ考えつつ、今は現代彫刻という枠に収まって制作をしています。書籍によって自分が歩んできた精神的支柱を再度考え直してみたい衝動に駆られ、今日のNOTE(ブログ)に書いた次第です。
2017.12.20 Wednesday
現在、新作として大きなテーブル彫刻を作っています。この作品は今年の夏に東京銀座のギャラリーせいほうで発表した「発掘~宙景~」の発展形です。今までNOTE(ブログ)に制作工程を書いてきたのは、専らこの大きな新作のことであって、個展ではこれに限らず、他にも3点ほど新作を発表する予定でいます。そろそろ他の3点にも着手しなければならない時期がやってきています。サイズは現在作っている新作より小さいものになりますが、いずれもテーブル彫刻です。テーブル彫刻のバリエーションを考えるのは楽しく、制作意欲が湧いてきます。現在イメージは既にあって、それをどう具現化するのかを考えています。1点目は正方形に近いカタチをもつテーブル彫刻で、テーブルの下部に吊り下がる陶彫部品のみで構成するため、テーブルの脚は4本で長めに設定しています。2点目は鋭利な三角形によるテーブル彫刻で、テーブル上部に尖がった陶彫部品を配置するものです。テーブルの脚は短めで、テーブル下部には何もありません。ただし、3本の脚はテーブルの上に突き出し、先端を尖らせる予定です。3点目のテーブルは曲線であり、テーブルの上と下に陶彫部品を設置します。陶彫部品は曲面のある有機的な形態を考えています。高さは前述2点の中間に位置する高さを考えています。脚は3本で曲線を描くカタチを考えています。この3点のテーブル彫刻は12月末の休庁期間に制作を開始しようと思っています。
2017.12.19 Tuesday
通勤の友として現在読んでいる「触れ合う造形」(佃堅輔著 西田書店)の最初に登場する芸術家がムンクとロダンです。ノルウェーの画家ムンクとフランスの彫刻家ロダン。この2人の巨匠の間に何かしら共通点があったとは、自分はまるで知りませんでした。苦悩する人々を表現した作品に似通ったテーマが認められますが、私はまったく別々の情報から知り得た画家と彫刻家だったので、同時代を生きたことも知りませんでした。ムンクが奨学金を得てパリにやってきて、そこでノルウェー人彫刻家を通して初めてロダンの作品を知ったようです。ロダンの内面から表出された人体塑造は、ムンクの人物表現に投影されていて、人間のポーズから精神性に対する追求が始まったように思えます。こんな一文がありました。「ロダンの芸術がムンクにとって重要だった本質的な観点を、展望しながら要約するならば、次の点が確認されるのである。それは何よりもまず、ムンクに影響を及ぼしたロダンの主題とモティーフ、内容に関するもの、思想の豊かさ、象徴主義である。ロダンにおいてエロス、移ろいゆくものと死をふくめて生命の実存的なものが、高い相対的価値を占めている。二人の作品は、この緊密な複合体をめぐっているのだ。さらに、ムンクに強い印象を与えたロダンの作品における造形力と彫塑的なものがある。~略~ムンクは彫塑的表現への志向をますます強めて、独自なモデリングを首尾一貫して試みるようになったのである。」ムンクの彫刻作品を私は知りませんでしたが、空間に対するムンクの関心はロダンからきていることを悟りました。さらに「アイゼンベルトは、ロダンに人物たちのまわりには、『ある種の運命空間』が不可視的に生きている、あるいは空間的関連を暗示的にモデリングする浮彫りや群像作品に見られるように、可視的にも『ある種の運命空間』が生きているという。それは単に印象主義的な雰囲気とロダンの場合に特徴付けられたものではない。それはここでは、むしろ、より濃密な空間なのであって、この暗闇から人物たちが《地獄の門》における身体のようにあらわれ、そしてこの空間のなかへ、またふたたび深く沈みうるのだ。ロダンの身体は、宇宙的と感じられたこの空間のなかで、しばしば『漂っている』」
2017.12.18 Monday
職場の休憩時間に読んでいる「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)の中で、「『抽象絵画』という表現において『抽象』の意味するもの」という章があります。抽象的と言われる所以は、帰属している実在性から切り離されていることですが、抽象絵画においては、目に見えている世界を一種の純化によって、幾何学的な基準へ移行することと本書では述べています。さらに本書の一文に頼れば「(絵画の)革新の試みの前提として役立っているのは、相変わらず外部の実在性であり、その実在性の何らかの解釈である。キュビズムの抽象化は具象的な企てに帰属しており、その企ての実現の一様態として理解されるべきである。」となります。それに比べてカンディンスキーが唱える抽象は、おのれ自身へのたゆみない到達の渦中にある目に見えない生のことです。それを文中から引用すると「『抽象』は、もはやここでは単純化や複雑さの過程の果てに、現代絵画の歴史をなすような歴史の果てにこの世界から生ずるものを表すのではなくーこの世界の手前にあって、存在するためにこの世界を必要としない〈それ〉を、つまり光も世界もない、自己の徹底的な主観性という夜の中に包み込まれている生を表すのである。」と書かれています。そうであれば、カンディンスキーにとって絵画の出発点は何でしょうか。「それは感動すなわち生のより激しい形態ということである。芸術の内容とはそうした感動である。芸術の目的とは他者にその感動を伝えることである。芸術の認識はすべて生の中で発展する。それは生自体の運動、増大する、より激しくおのれを感受する運動である。」カンディンスキーの有名な著作に「芸術における精神的なもの」があります。その中にも抽象の意味するものを伝える主旨があり、本書ではこんなふうに扱っています。「自然主義に抗して、芸術の固有の次元が『精神的なもの』すなわち目に見えない生ー芸術は目に見えない生の自己拡大のプロセスと同調し、絶えずつき動かし刺激することによって、その生と一体化するーであることをあきらかにしなければならない。」