2026.10.23 Friday
「綺想の美術廻廊 種村季弘・異端断片集」(斎藤靖朗監修 芸術新聞社)の「吸血鬼」について、気に留めた箇所を取り上げます。本章では図録に添えた短文を、さらに選択して羅列してあります。「吸血鬼は、寄辺ない近代人のヴェールを剝がれた不安な素顔そのもの、その被投企の実相の神話的形象への投影にほかならない。」「吸血鬼は死と生との世界に同時に住み、両界を自在に往還するすべを心得た二重存在なのである。」「市民社会化が進み、とりわけそれぞれの世紀末の衰退した雰囲気のなかですべてのものが沼のように無気力に澱みすえた魔の時刻に、吸血鬼は跳梁しはじめるのである。」「吸血鬼はむろん女の吸血鬼も、それぞれがそれぞれにとって異形である男女の怪物性のひたすらエロチックな意味に即して深められ拡大された畸型学的誇張である。」「アニマには二つの顔がある。死と地下世界に通じる冥府的破壊的側面と、天上的宥和的側面である。そもそもがひとつの全一性を形作っていたものが二つに割れたのだから、その一方にあこがれれば、もう一つの側もその影として姿をあらわさないわけにはいかない。」「ドイツ語では現在でも売春を意味する動詞hurenは同時に『偶像を礼拝する』の意味である。時間という黒い汚染源に清らかな額を洗われて、聖性はしだいに卑賎へと失墜してきたのだ。」「悪魔は教会芸術と神学的文献のなかで形成された、その論争的な、大衆説得用のあざといこけおどしめいた形姿を、戦術的にかなぐり捨てただけかもしれないのだ。」「血は永生の霊液であり、吸血鬼信仰は不老長寿精力増強の妙薬たるこの血の呪術的効能に基づいている。」「生の本能たるエロスは、いうまでもなく生体維持、進歩、場の確保を目的とし、タナトスの破壊し、消滅させ、退化させる力に対立する。」「誘惑し凌辱する死の襲撃にたいして美(=女)は奸智をこらして逃れようとし、鏡や装身具や意識的な媚態のような、その虚栄象徴の人工性の極致をこらした防衛策をつくして死の解体する力と競い戦い合うのである。」今回はここまでにします。
2026.10.22 Thursday
「綺想の美術廻廊」(斎藤靖朗監修 芸術新聞社)は「種村季弘・異端断片集」という副題があって、ドイツ文学者種村季弘の美術に関わる言葉を集めた書籍で、嘗て種村ワールドに親しんだ私は、当時を振り返りながら本書を読むことにしました。前に読んでいた「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著 野中邦子訳 白水社)に続く奇想繋がりで本書を選びましたが、扱っている芸術家はまるで異なります。本書を捲ると図版が多く、そのほとんどが頽廃的な雰囲気を持つものばかりで、これはマニエリスムだなぁと思いました。私は自分が求める作風とは別に、自分とは正反対に位置する世界に惹かれてしまう傾向があります。学生時代に幾つかのアンダーグラウンド演劇に通っていた頃を思い出すのです。さらに海外生活にあってもウィーン幻想絵画に興味関心がありました。私には情念やエロスを表現することは到底無理で、自分の中にないものをねだっている子どもの感覚に近いのかもしれません。本書の序にあった文章から引用いたします。「種村が文章を執筆するうえでその理論的支柱のひとつとしたのが、グスタフ・ルネ・ホッケのマニエリスム論です。マニエリスムは、本来はルネサンスとバロックの間に生まれた極度に技巧的・作為的な芸術様式を指す言葉です。しかし、ホッケは師のE・R・クルツィウスの研究を継承し、『古典的=アッチカ風、調和的、保守的。マニエリスム的=アジア風、ヘレニズム風、非調和的、近代的』というような、古典主義と対になる概念としてマニエリスムを定義し、さらにヨーロッパの文化が両者の緊張関係のなかで形成されてきたことを明らかにしました。~略~本書は二つのパートに分かれています。前半は『吸血鬼』『化身』『怪物』『魔術』という四つの章で構成しました。~略~後半では種村が生前親交のあった作家たちに残した言葉を紹介します。」(斎藤靖朗著)前半の図版に添えられた文章は、凝縮した詩的な語彙が並んでいて、理解が覚束ないものもありますが、気に留まった箇所を選んでNOTE(ブログ)に書いていきます。
2026.10.21 Wednesday
今日は朝から工房に行って、昨日窯入れした作品の温度確認をしてきました。これで新作4点目の焼成になります。現在の私の頭の中は創作活動しかなく、新作陶彫の制作工程やら自宅で取り組んでいるRECORDのデザインについてあれこれ考えている日常です。読書は新しい書籍を取り出して読み始めました。この書籍にしても美術関係のもので、今の私の生活は全てが美術で彩られていて、それは前から私が希望した生活でもあるのです。5年前に教職を退職した私は、長年従事してきた教職に対して既に未練はなく、寧ろこれからの人生を好きなことに費やしてもバチはあたらないだろうと退職時に考えました。それでも教職の名残が今もあって、今日は地元にある市立中学校の学校運営協議会に出席してきました。学校運営協議会とは、法律(地教行法第47条の5)に基づいて教育委員会が学校に設置する協議会のことで、校長が自らの学校運営に関して地域から意見を聞き、支援を求めるものです。私も校長の立場にあった時は地域の方々に意見をしていただきました。今は地域の一員となった私は気楽な立場となり、授業を見る機会が少なくなった私には、各教科の授業を見ることができて、それだけでも良い刺激になっています。生徒一人に1台端末が配布されていて、それを見ながらの授業や学習発表は、私の頃にはなかった学習環境であり、それでもノートに手描きしている生徒が多かったのに、私はホッとしていました。私は古い世代と言われても、紙ベースの教科書を開き、ノートに手で文字を書く姿勢が今でも学力向上に役立つと信じているのです。利便性の高い電子機器を必要としながら、それに依存することがあってはならないと考えているからです。脳が記憶を刻むのに手を使うことが大事なのだと私は何の根拠もなく信じていて、アナログはどの時代になっても廃れることはないと思っています。私の創作活動もそのアナログの最たるもので、古代から同じやり方で粘土をこねて成形をしているのは縄文人と変わりません。今日は教職に就いていた頃の記憶を呼び覚ました貴重な一日になりました。
2026.10.20 Tuesday
先日出かけた東京国立博物館で開催している「大徳寺展」。数ある逸品の中でも、私が気を留めた作品は、まず中国の禅僧画家牧谿による「観音猿鶴図」でした。微光に包まれた幽暗な世界に観音、猿、鶴が溶け込んだ墨画淡彩が展覧会入口で、私を迎え入れてくれました。図録に大徳寺は「水墨障壁画の宝庫」であると記されていて、その名の通り高度な障壁画の数々が展示されていて、私は暫し立ち尽くしてしまいました。まず、狩野派で言えば伝正信筆による「武石白鶴図屏風」や「四季花鳥図」は墨の濃淡と描き込みが見事でした。孫にあたる永徳筆の「花鳥図襖」や「琴棋書画図襖」には瑞々しさがあって、たっぷりした空間を感じました。図録より関連の文章を引用します。「永生十年(1513)に古嶽宗亘の塔所として創建された大仙院方丈の障壁画は、創建時の方丈遺構と障壁画遺品が完備し、当初の配置を再現できる点でもきわめて貴重である。大仙院の襖絵は、方丈内で最も格式の高い室中を足利将軍家同朋の相阿弥が担当し、その他の部屋は元信とその一派が担当した。室中に描かれたのは瀟湘八景図で、牧谿様にならった湿潤な大観的画面が展開している。檀那の間を飾る四季花鳥図では、水景を中心とする水墨山水の中に色とりどりの花鳥を配しており、元信による真体花鳥図の真骨頂を示す。~略~時代の寵児として華々しい活躍を見せた永徳だが、ここで彼に真っ向から対峙した絵師がいた。長谷川等伯である。等伯は能登から上洛し、永徳の没後は秀吉の画事を務めるに至るまで昇りつめたが、その飛躍の大きな契機となったのが大徳寺における仕事であった。」有名な「唐獅子図屏風」を描いた狩野永徳や、同じように有名な「松林図屏風」を描いた長谷川等伯という、私にとって馴染みのある絵師が登場してきて、「大徳寺展」は一気に親しみを持つに至りました。ただ幾度となく見て記憶にある水墨画より、ここで初めて目にする障壁画の方が新鮮であり、また運筆を確信するだけで、楽しみが倍増することもよく分かりました。水墨障壁画は総じて湿潤な空気感を表現することに長けていて、これが日本人の日本人たる特徴なのだろうと思いを新たにしました。
2026.10.19 Monday
先日、東京の上野にある東京国立博物館で始まった「大徳寺」展に行ってきました。まだテレビの美術報道がないためか、逸品揃いの展覧会にも関わらず思っていたほど混雑はなく、じっくりと鑑賞出来ました。京都の大徳寺は塔頭寺院が居並ぶ大きな寺で、私はそのうちの一つである大仙院に足を踏み入れたことがあります。枯山水の庭園を見るためでしたが、その中で船の形をした石が妙に印象に残っています。これは私事旅行ではなく、以前教職に就いていた頃の修学旅行の引率だったのかもしれません。ともあれ今回の展示はあらゆる分野を網羅していて、見応えがありました。「頂相」(師僧の姿を描いた肖像)や遺品としての文物などがあり、大変な価値を有するものが展示されていたとは思いますが、学識を持たない私は呆然と眺めていただけで、気に留まったのは茶の湯に使われたであろう高麗茶碗と曜変天目、狩野派の面目躍如ぶりが見られた障壁画の数々でした。障壁画に関しては私の心に響いた表現もあったので別稿を起こそうと思います。図録より大徳寺の輪郭を捉えた文章を選んで記述しておきます。「大徳寺は、開山・宗峰妙超(大燈国師)の峻烈な禅風を今に伝える、洛北随一の巨刹」であり、「後醍醐天皇は大徳寺を『本朝無双之禅苑』と尊宗し、日本に二つとない禅苑としての光輝を放つ」ことになります。さらに「一休宗純や沢庵宗彭、江月宗玩ら傑僧が輩出するとともに、織田信長や豊臣秀吉ら戦国武将たちからも篤い信仰を集め、壮麗な障壁画と明媚な庭園を擁する数多くの塔頭が建立」されたようです。また「千利休や津田宗及をはじめとする豪商や数寄者との所縁が深い」ことでも知られていて、ここまで文章を羅列するだけでも大変な存在感を放つ寺であることは疑う余地がありません。とりわけ禅という仏教用語が寺の本質を成していることに私は興味関心を持ちました。禅とはネットで調べれば「心が動揺することのなくなった状態」を言い、最近では日本びいきの外国人たちに人気のある言葉です。ただ私自身は日本人でありながら、禅を理解しているとは言い難く、私たちに根づいている不確かな感覚なのかなぁとも思っています。ともあれ、「大徳寺」展の障壁画についてはもう一度、別稿を起こします。