2026.03.02 Monday
「ピクチャレスクとイギリス近代」(今村隆男著 音羽書房鶴見書店)の「第2章 ピクチャレスクと観光」の中の「2ピクチャレスク理論の実践」を取り上げます。これはギルピンの著作「湖水地方観察紀行」が中心となる論文になります。ここで有名なナショナル・トラストの考え方が登場します。「土地所有者達は『好ましい趣味』を持って土地を管理する責務を担っているのであり、それによってその土地は『一種の国民全体の財産』と呼べる場所になる。この考え方がのちのナショナル・トラストや国立公園の創設の礎石になっていったということはよく知られている。ギルピンは廃墟の保護について、それがのちの世代のための『預託物』であり、所有者は単なる保護者にすぎないと言っているが、まさにこの「預託」あるいは『信託』と言う考え方を実践する公共の組織として作られたのが、ナショナル・トラストだった。~略~彼の描いた風景は、外面的な特徴を詳しく正確に描くということを基本にしており、表象的要素に多くを依存した18世紀前半までの手法から脱却し、一定のルールの中においてではあるが観察による対象の客観的な描写を目指したという点にその意義がある。~略~言語によって眼前の風景を読者に伝えることの難しさに彼は直面することになり、一度自らが否定したアナロジーや想像力といった観念的な手法に支えられた描写を部分的にせよ再導入することになる。『湖水地方観察紀行』には、観察力と想像力、客観と主観との狭間で揺れるギルピンの時代感覚が読み取れる。『湖水地方観察紀行』のもう一つの特徴は、伐採された森林や崩壊してゆく廃墟への言及がしばしば認められることであった。これは旅の途中でギルピンが仔細に風景の変化を観察していた証拠であるだけでなく、彼が自然と人間との関係について考究する手がかりともなっている。森林の伐採はこの時代の人間による自然破壊行為の代表的な例であるが、一方で廃墟をのみ込む植物の生命エネルギーは人為を越えた自然の力の象徴である。」今回はここまでにします。
2026.03.01 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。今日から3月で、そろそろ新作の制作に拍車を掛けなければならないかなぁと思っています。私は教職が長かったせいで、3月は年度末という意識が強くて、1年間の締めくくりを感じてしまいます。退職してから数年経っているので、12月を1年の締めくくりにすれば良いのになぁと思いますが、昔から使っているバインダー製の小さな手帳は、日記を4月始まりにしています。先日も年度で替えていく新しい日記を購入してしまいました。そんな年度末の3月ですが、桜の季節とともに歩んで行けるので、日本人には馴染みがあるのだろうと思います。季節はまだ三寒四温ですが、これからは確実に暖かくなっていくので、制作時間を朝9時から夕方3時までのルーティンに戻していこうかと思っています。このところ美術鑑賞も映画鑑賞も少なくて、そろそろ感性に潤いが必要かもしれません。夜には読書もRECORD制作も継続していて、私は社会との繋がりが希薄となった自由気儘な人間なのに、何かと忙しい毎日を過ごしています。勿論これは生活のための仕事ではなく、好き勝手に自分で進めている活動なので、気遣いはまったくありません。自分自身の輪郭を辿り、心の底を広げ、そこから造形して立ち上げていくものをギャラリーで発表し、見に来られた人の心に刻まれることがあれば、私は満足です。それは結構難しいことで、人の気持ちに入り込める造形は、並大抵の力量では太刀打ちできないと考えています。そのために毎日制作をやっていて、一人で悩み、一人で納得したりしているのです。そこに正解はありません。それでも突き進めていくのが作家魂なのだろうと思っています。今月も頑張っていく所存です。
2026.02.28 Saturday
週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行なうのですが、今日は2月の最終日なので、今日は1ヶ月分の振り返りを行ないます。2月は28日しかないので1カ月が早く過ぎました。今月は28日間のうち25日間は工房に通いました。工房に行かなかった3日間は雪が積もった日と「如月展」の搬入日と搬出日でした。工房での制作は、1カ月間ずっと壁に掛けるパネルに貼り付けるレリーフ制作をやっていました。毎日、電動糸鋸盤を駆使して杉板の刳り貫き作業ばかりで、これはほぼ工芸的な技法なので、彫刻を作っているようには思えませんでした。毎日制作状況をメモしている小さな手帳を見ると、制作時間が長くなってきていて、これは寒さが緩んでいる証拠になります。亡父の残してくれた工房周辺の植木畑を見ると、梅の花が咲いて、そこに鳥たちがやってきています。青空が広がる日には、その花々の楚々とした煌めきと鳥たちの囀りが空に映えて美しいなぁと感じました。また柑橘類も実をつけていて、確実に季節は冬から春へ変わろうとしている息吹を感じます。それに伴い花粉も飛んでいて、私は今もくしゃみが止まりません。今月は衆議院選挙があったり、確定申告もありました。今月の鑑賞では「鹿子木孟郎展」(泉屋博古館東京)に行きました。元管理職で同僚だった女性作家による刺し子展(ブラフ18番館)にも顔を出しました。鑑賞の機会としては少なかったと思いますが、退職校長会による「如月展」を開催していた関係で、気分的には慌ただしい感じを持ちました。読書では隠れキリシタンを調査した論文を読み終えて、現在はピクチャレスクとイギリスの関係を論じた書籍を読んでいます。文中には些か難解な表現もありますが、ボケ防止と思って、難題に齧りつきながら理解に努めています。RECORDは遅ればせながら夜の時間を決めて作っています。前にも書きましたが、RECORDは造形的発想の訓練にもなっていると感じていて、イメージを鍛錬するためにやっているとも言えます。明日から3月で光陰矢の如しを実感しています。
2026.02.27 Friday
2月も1月と同じ状況になっているため同じことを書きますが、土曜日の1週間振り返りを一日早い今日行ないます。というのは、明日の土曜日が今月の最終日になり、明日は今月1ヵ月の振り返りを行なうためです。今週は毎日工房に通っていましたが、日曜日は「如月展」の搬出日になっていたため、日曜日だけは工房に行かず、横浜市中区にあるギャラリーミロで受付をやっておりました。火曜日は地域にある公立中学校の学校運営協議会があり、午前中は同協議会に参加していたために、工房へは午後になって行きました。学校運営協議会は年数回開催されるもので、私自身が数年前まで教職に就いていたことを忘れないために参加しているわけですが、学校にとっては重要な会議なのです。現在の中学生の活動を垣間見られる貴重な機会でもあります。この時期は公立高校の入試が終わり、3年生たちは校庭で球技大会をやっていました。ストレス発散のためでしょうか、元気な歓声が校長室まで聞こえていました。木曜日は東京六本木にある泉屋博古館で開催中の「鹿子木孟郎展」を見てきました。展示してあった写実絵画には現在読んでいるピクチャレスクの論文との関連性が感じられて、実際の眼で見る絵画と、風景画の情景を論じている文献との絡みに、私自身さまざまな考えが浮かんできました。工房での制作は、絵画とはニュアンスが異なる壁に掛けるレリーフ作品を作っていて、それはそれで自分の主張を深めていくプロセスを探っている最中なので、どう考えても絵画とは相容れない要素があると思っています。私の作品に絵画性はあるものの、現在作っている作品は壁に掛ける彫刻作品だろうと考えています。レリーフになる杉板材と画面の間には僅かな空間を作ります。そこに照明を当てると描写したものとは違う陰影が落ちるのです。そうした発想は立体としての要素で、平面的思考とは異なります。そんな思いを抱きながら今週も只管杉板材に刳り貫き作業を施していました。
2026.02.26 Thursday
今日は午前中工房で作業をやってから、昼頃になって家内と東京の六本木に出かけました。泉屋博古館東京で開催している「鹿子木孟郎展」を見て来ました。同展の情報は美術関係のテレビ番組で知りました。この時私は鹿子木孟郎という画家も初めて知ったので、関西美術界にこんな人がいたことに少々驚きました。まさに写実の写実たる画風は、筋の通った力強さも感じさせ、その存在感は不倒と言われた通り、絶え間なく研鑽を積んでいたことが作品を通じて伝わってきました。展示は10代から晩年の60代まで生涯にわたっていて、私が気を留めた太い樹木を描いた絵や関東大震災を報道映像の如く描いた絵などにその魂を感じ取ることができました。図録による「木の幹」の文章を引用いたします。「圧倒的なまでの克明な写実的表現に目が奪われる《木の幹》もまた、荒々しい樹皮の質感や太い幹の力強い筆致からは、時を経たものが内に持つ神秘性を捉えようとする鹿子木の真摯なまさざしが感じられる。」また関東大震災を描いた作品は「正確なデッサン力と様々な素材を駆使した厳格な画面構成に加え、死や暴力に関わる劇的な場面設定でたった今その出来事が起こったかのような迫真性に充ちた手法は、まさにローランスの歴史画に学んだものだが、一方モチーフの総てに均質に焦点を当てて一定の質感を持った分厚い筆致は、写真の時代における写実絵画の方向を示しているともいえる。」(引用は全て野地耕一郎著)とありました。油彩による代表作品の文章表現は図録の著者に任せてしまいましたが、若い時代に描かれた鉛筆を使ったスケッチは、その濃淡によって周囲の空気を捉えていて、まさにアカデミズムの極致とも思えました。鹿子木孟郎は明治7年に生まれ、昭和の初期に亡くなっています。もし彼が第二次世界大戦中をも生きていれば、戦争画を描くこともあったかもしれません。藤田嗣治のような描写力が備わっていたので、その宿命から逃れることは出来なかったとは思いますが、戦争前に亡くなったことがその宿命を断ち切ったとも言えます。会場を巡りながら様々な考えが私の中で去来しました。