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  • 「殺人、箱舟、バベルの塔」(前編)
    「キリスト教美術をたのしむ」(金沢百枝著 新潮社)の「殺人、箱舟、バベルの塔」は7つの単元から成っています。今回は〔12カインとアベル Ⅰ〕から〔14聖十字架伝説〕までを扱います。まず〔12カインとアベル Ⅰ〕。「楽園を出たアダムとエバには、やがて、ふたりの息子が生まれました。兄のカインは農夫に、弟のアベルは羊飼いになります。人類初の殺人事件が起きたのは、ふたりが収穫物を神に捧げた直後です。~略~憎しみというネガティヴな感情を、神さまは否定しません。むしろ、それをコントロールすることを人間に要求するのです。しかし、『罪』を『支配』できなかったカインは、アベルを殺してしまいました。人類初の殺人です。」次に〔13カインとアベル Ⅱ〕。「カインは、ほんとうに、弟アベルを殺したことが発覚しないと思っていたのでしょうか。殺害後、『お前の弟アベルはどこにいるのか』と神さまに訊かれたとき、『わたしは弟の番人でしょうか』としらばっくれています。~略~カインの最期は哀れです。聖書に記述はないのですが、『創世記』第4章24節に『カインのための復讐が7倍ならレメクのためには77倍』という不思議な一節があるため、中世では、カインの子孫レメクが(カインを)殺したとされました。」次に〔14聖十字架伝説〕。「アベルが殺され、カインが追放された後、アダムとエバにはもうひとり男の子が生まれました。アダムが130歳のときの子で、名はセト。~略~セトが楽園から戻ると、アダムはすでに息をひきとっていたので、その亡骸に小枝を植えます。このアダムの埋葬場所が後に、キリストが磔刑で処されるゴルゴダの丘となるのです。~略~シェバの女王がソロモン王を訪ねたとき、この材木(小枝の成長した木)は、エルサレムを潤すケドロン川の橋に使われていました。女王は、心眼で、この木が後に救い主キリストが磔にされる十字架になると見抜き、拝んだのです。」本書の図版に「セトを楽園に送り出すアダム」を描いたものがあって、作者はピエロ・デラ・フランチェスカです。私の大好きなルネサンス画家による絵画であることをつけ加えておきます。今回はここまでにします。
    茅ケ崎の「牧野邦夫」展
    今日は家内を誘って茅ケ崎市美術館で開催されている「牧野邦夫」展に行ってきました。画家は既に故人となっていますが、2013年に練馬区立美術館で個展が開催されていて、私は同展を見ていました。魂が込められた緻密な写実画が印象に残りましたが、どの絵画一つとっても全力で描き込んだ世界観に息苦しさも感じました。今回の展覧会で当時の記憶が甦りました。本展も多くの自画像があり、柔和な表情をした自画像は一点もなく、こちらをじっと見つめる画家の眼差しの強さに牧野ワールドらしさが伝わってきました。写実画はその巧みさに目が奪われますが、画家がその技巧を使って何を表現したかを捉える必要があり、また時代を経て広がる対象にも考えを巡らせました。自己の精神を削り取るような画業の在り方は変わらないものの、53歳の時に妻となるモデルとの出会いがあって、画中に美しい女性が登場してきました。人物を描くことに長けた画家は、やがて群像を含めた壮大なテーマに挑んでいくことになるのです。図録に評論家による「海と戦さ」に関する文章がありました。「『いかにもギリシャ・ローマ的な肉体表現が脈打つこの壮大な油絵の主題は、じつは日本の古典である。画面上部には、〖平家物語〗のテキストが、癖のある書体で描き込まれている。(中略)しかし、画家は時代考証をして忠実に再現するわけではなく、洋装の人物がいたり、武具も洋式であったりする。日本の古典を発想源とし、その物語を想念のなかでさんざん煮詰めた末に、みずからが拠処としてきたヨーロッパ古典絵画のイメージと混交して生み出された、カオスとしての物語絵画なのである。(後略)』牧野邦夫は、終生レンブラントを敬愛し、ヨーロッパ古典絵画の技法に憧れた油絵を描き続けた。しかし、晩年にはこの《海と戦さ》のような、日本の古典を題材とする作品、あるいは芥川龍之介の小説を題材とするなどを多く遺した。私はそんな牧野の『先祖返り』した作品を高く評価したいと思っている。」(山下裕二著)本展はNHK「日曜美術館」の影響もあって、平日にも関わらず大勢の鑑賞者がいました。昼食には家内と本館2階のカフェで洒落た昼食をとりながら、海沿いの美術館の風情を楽しみました。
    新聞記事より「強烈な相剋があるにしても…」
    今日の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事より、その内容を取り上げます。「社会全体が、たとえ内部に強烈な相剋があるにしてもそれをカバーし、緊張的な共感に貫かれているという時代ではない  岡本太郎」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「現代の芸術家は『許された範囲内』でもがくばかり。『遊んでいない』、痛々しいばかりに遊べないでいると、前衛芸術家は言う。血の噴き出るような個人の訴えに社会が応えることがなく、みなバラバラにされていると。70年万博の数年前の発言である。まだまだ絶望が足りない。もっと絶望せよと言いたかったか。『原色の呪文』から。」今は亡き岡本太郎が残したもので、私は絵画や立体作品より、著された多くの書籍に魅力を感じています。因みに彼が書いた「縄文土器論」は私にとってバイブルのようなもので、陶彫制作では指南役になっています。この記事が書かれたのは70年万博の数年前というので、私がまだ小学生だった頃になります。私が知っている一つ上の世代の芸術家たちは反芸術を旗印に固定概念を打ち破ろうとしたのを、高校生だった私は何となく理解していましたが、さらに前の世代の人たちは内部に強烈な相剋を抱いていて、それが報われない社会全体に不満があったのは確かなようです。その見方で現在まで見ていくと、当時から日本の社会はほとんど変わっておらず、しかもそれに反旗を翻す芸術家もいなくなっているのではないかと思います。それにしても岡本太郎の書かれた文章に古さを感じさせない魅力があるのは何故だろうと思っていますが、それは造形美術にも通じる概念があって、常に不変で恒久なモノを追求してきたからこそ、文章にもそれが表れているのでしょう。
    「天地創造からアダムとエバまで」(後編)
    「キリスト教美術をたのしむ」(金沢百枝著 新潮社)の「天地創造からアダムとエバまで」は11の単元から成っています。今回は〔8リリス〕から〔11労働〕までを扱います。まず〔8リリス〕。「リリスは、オリエントの複数の悪魔が合体してできた女悪魔。とくに、メソポタミアの女悪魔、アルダット・リリとラマシュトゥの融合と言われていて、ふたりの女悪魔を引き継いでいます。アルダット・リリは産褥の母子や新生児を襲う存在でしたから、こうした護符の起源は古いのでしょう。アダムの妻に結びつけた伝承は、後代の『こじつけ』。」次は〔9叱責/楽園追放〕。「楽園追放の顛末は不可解なことだらけです。なぜ神は、人間が生命の木の実を食べ、永遠の命を得ることを阻止したのか。蛇はなぜ人間に禁断の実を食べさせたのか。中世のキリスト教は蛇を悪魔とみなしていますが、楽園に悪魔が存在すること自体、きわめて深刻な問題を孕んでいます。すなわち、『悪』の起源。キリスト教では、この宇宙は唯一神によって造られたとする一元論をとるのが一般的ですが、この世に蔓延する不条理、病苦、悲しみなどに直面すると、『神が全能であるならば、なぜこの世に悪があるのか』というつらい問題に突きあたります。」次に〔10「生命の木」と「死の木」〕。「『生命の木』と『死の木』をともに描いた初期の作例は、スペインのカタルーニャ地方にあります。12世紀ロマネスク壁画の聖母子図です。両側に2本の木があり、聖母の右肩側は緑豊かだけれど、もう一方は枯木です。救い主の誕生によって起きたこの世の変化を、左右で描き分けているのです。キリスト教美術の図像学では、神の右側は『善』なので、聖母子の右に『生命の木』、左に『死の木』。枯木が象徴する原罪が、キリストによって贖われ、永遠の生命に変わることを示しています。」次に〔11労働〕。「エデンの園を追放されたアダムとエバには、苛酷な現実が待ちかまえていました。~略~楽園追放の場面では、耕すための鍬をアダムが抱え、糸を紡ぐための棒をエバが抱えている姿を描くのが一般的です。糸紡ぎは女性の仕事。12世紀イングランドで制作された『セント・オーバンズ詩編』では、創造主がふたりを送り出しています。」今回はここまでにします。
    「天地創造からアダムとエバまで」(中編)
    「キリスト教美術をたのしむ」(金沢百枝著 新潮社)の「天地創造からアダムとエバまで」は11の単元から成っています。今回は〔5エバの創造〕から〔7蛇の姿〕までを扱います。まず〔5エバの創造〕。「いよいよ、エバの登場。創造主は、動物たちの間に『片割れ』を見つけられなかったアダムのために、『助け手』を造ることにしました。~略~システィーナ礼拝堂の天井画を見ると、ルネサンスの画家ミケランジェロも、中世の図像を踏襲しているのがわかります。『肘を曲げて眠るアダム』『両手をあげるエバ』『脇腹から生じるエバ』などは従来の図を踏襲。けれど、同時に、人体の立体感や空間表現上で齟齬をきたさないよう、アダムの位置関係にひと工夫こらしているのが心憎い。」次に〔6堕罪〕。「アダムとエバが禁断の実を食べる『堕罪』の場面は、キリスト教の教義の要です。ふたりが『罪=原罪』を犯さなければ、それを贖うために救世主がこの世に降り立つこともなかったでしょう。~略~もしも目の前に、きらっきら輝く美味しそうな果物があって、『それを食べたら目から鱗が落ちる。別世界が広がるよ』なんて言われたら、食べないでいられるでしょうか。わたしには自信がありません。案の定、エバもアダムも食べてしまいました。蛇の言葉どおり、直ちに死ぬことはなく、ふたりの『目が開け』ました。裸でいることを恥じ、いちじくの葉をつづりあわせて、腰を覆いました。」次に〔7蛇の姿〕。「エバを誘惑する『蛇』が、たんなる蛇でないことが多々あります。たとえば、楽園追放図の背景に小さく描かれた堕罪場面。実をむさぼるエバの後ろで、少女の顔をもつ『蛇』が不敵な笑みを浮かべてこちらをみつめています。~略~エバの警戒心を解くため、悪魔が少女の姿に化けたというのです。その論法を、旧約聖書の外典『宝の洞窟』は、こう説明しています。『もしも蛇が醜い悪魔の姿をしていたならば、エバは話しかけられてもすぐに逃げ去っただろう。鸚鵡に言葉を教えるとき鏡を用いるように、自分と同じ姿を蛇にみいだしたからこそ、会話が成り立った。』」今回はここまでにします。