2026.07.27 Monday
今日から東京銀座の7丁目にあるうしお画廊で私の個展が開催されました。昨年までお世話になっていたギャラリーせいほうの近くなので、順路として私は今までのように新橋駅から徒歩で向かうことにしました。新しい発表環境は私にどんなことを齎せてくれるのか、楽しみのひとつではありました。画廊に着くとベテランと思われる画家が私に話しかけてきました。この初の鑑賞者の言われたご意見が私を突き動かしました。壁に掛けていた「炭景」4点に対して、私がずっと迷っていたものに明確な解答を与えてくれたのです。「炭景」は木枠を作っていて、その中に展開する世界を描いていたのですが、その木枠が問題でした。絵画のような木枠、そこで区切られてしまうことに対し、床置きの立体作品は開放感のある空間を演出しています。つまり「炭景」と「発掘~六蹟~」の関係性に繋がりが感じられないと彼に主張されました。まさにその通りで、的を得たご意見に反論ができませんでした。私は今まで床置きの陶彫による空間演出装置に自信を持っていたのは確かで、それに比べて初めての試みであった「炭景」の迷いが何だったのか、その原因が掴めたように思いました。無理に絵画性に拘るのをやめて、壁に掛ける彫刻として今後は考えていきたいと決意しました。開かれた空間が私の世界観になるように方向づけをしていきます。今までのNOTE(ブログ)にも絵画という語彙が出てきますが、これからは壁掛けの彫刻として具体的に木枠を取っ払っていこうと思っています。もう来年に向けた制作が始まっているので、床置きと壁掛けをひとつの作品として意識していくつもりです。今日は時間を持て余すことがなく、さまざまな方々が来られて感想やらご意見をいただきました。画廊が変わって、来られる方々も違うのは、大変刺激的だなぁと痛感しました。酷暑の中をわざわざ足を運んでいただけた皆さまに感謝です。私は毎日朝11時半の開館より夕方17時半の閉館まで画廊におります。ご高覧いただけると幸いです。
2026.07.26 Sunday
日曜日になりました。いつもなら創作活動に纏わることを書いていますが、昨日は1週間の振り返りを行なわず、個展搬入の話題にしてしまった関係で、今日先週の振り返りを行ないます。先週は毎日工房に通いましたが、搬入準備と新作の陶彫制作に追われる1週間になりました。とくに搬入準備では作品の梱包は既に終わっていましたが、パンフレットの三つ折りやら運送業者との打ち合わせがあり、初めての画廊に関わることの雑務をこなしました。私にとって画廊の空間が変わることは一大事で、空間を変容させる私の作品がどのような効果を齎すのか、前に幾度となく訪れたうしお画廊を思い描きながら、イメージを膨らませていました。同時に来年度に向けた陶彫作品も作り続けていて、搬入に対する思いと来年に向けた思いが交差する1週間でもあったと振り返っています。一度個展を経験してしまえば、不安を払拭できると思いますが、20年前のギャラリーせいほうでの個展の時も不安に駆られていたことを思い出しました。でもそれは積極的な生きざまを示せる快い不安であって、自らの存在を発信できる機会でもあるのです。原点に戻れば、私の作品は地中から掘り起こされた架空都市を、あたかも出土品のようにして、そこに現前させる空間演出装置です。当然のように作品には台座がありません。同時に欠落した造形を見せているので、完全な姿ではありません。その欠落したカタチが何かを物語るように観る人に主張しているのが私の造形観でもあります。欠落しているからこそ美しいと感じたのは、40年前に私が旅したエーゲ海沿岸の遺跡に基づいているのです。その発想を繰り返し私は作品に結晶化してきました。画廊が変わっても「発掘シリーズ」は継続してきました。そのための最終的な展示準備を今週はやっていたのでした。明日から始まる個展で観に来られた人たちからどんな感想や意見がいただけるのか、毎年の事とは故とても楽しみなのです。
2026.07.25 Saturday
週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行なうところですが、今日は月曜日から始まる私の個展に向けて、その搬入や展示を行う日のため話題を変えます。昨年までのギャラリーは日曜日の丸一日をかけて搬入と展示を行っていましたが、会場が変わることを実感した一日になりました。今日は今日まで展示していたグループ展の最終日であり、夕方5時にグループ展の搬出と私の作品の搬入が入れ替わり、慌ただしい中での作業になりました。しかも横浜の工房から夕方の時間帯に東京銀座に出かけたことが今までになく、首都高速の交通事情を心配していました。途中事故渋滞に見舞われたことがありましたが、大したこともなく銀座7丁目のうしお画廊にほぼ時間通りに到着しました。運送業者2人と私が呼んだスタッフ4人と私の合計7人での搬入と展示作業になりました。費やした時間は2時間半。昨年までのギャラリーに比べると、うしお画廊の床面積が約半分であり、作品点数も少なく、また手伝い人数も多かったので、展示は細かいところまできちんと整えられました。うしお画廊の壁は手入れの行き届いた白い壁で、床置きの陶彫作品も壁掛けのレリーフ作品も見栄えがして、工房でのパンフレット撮影の時とは作品が違って見えました。これは今までも経験していますが、とりわけ立体作品は周囲の環境に左右されることがあり、それが立体構築物の面白さでもあります。照明を当てるとまた雰囲気が変わるので、私はその魅力に憑りつかれていると言っても過言ではありません。今回は画廊が変わって初めての個展になります。今日の搬入や展示状況が今後長く続くと思われるので、また今日の印象を来年に生かしていきたいと思います。今回は壁掛けの作品に課題を残しました。来年はさらに強固なものを作っていきたいと思いを新たにしました。最後に私の教え子たちの協力と臨機応変なアイデアに今回も随分助けられました。彼らがいないと、まともな搬入や展示作業が出来ないことを私は実感しました。改めて感謝いたします。
2026.07.24 Friday
「死、欲望、人形」(ピーター・ウェブ、ロバート・ショート著 相馬俊樹訳 国書刊行会)の「パリ1938-1939」について、気に留まった箇所を取り上げます。「1938年にパリに到着すると、ベルメールはシュルレアリストたちに暖かく迎えいれられた。以前からの友人であるポール・エリュアール、ロベール・ヴァランセ、アンリ・パリゾはついに自分らと合流できたことに歓喜し、アンドレ・ブルトンは1934年にウルスラを通じてはじまった交流を再開できると喜んだ。~略~『枝状に刻み込まれた流し目』での創作で、ベルメールは以後の生涯でずっと適用することとなるある方法を考えだした。与えられた文意をただたどるだけの作品を提示するかわりに、すでに自らの芸術の展開の一部となっている諸観念を再利用し、あるいは再生させたのである。にもかかわらずその成果は、あべこべに文章の方がイメージを入念に再現したかのような、文章とイメージとの顕著な同質性をもたらした。~略~1938年と1939年に描かれた作品は、身体と、とりわけその頭部が様々な身体パーツと様々な他の身体との混淆で構成される女性像である。これには参照すべき前例があった。フランス革命の時代にこの種の絵画が貴族や教会の人間を風刺するために描かれ、さらにその着想源となったのはダリの称賛した16世紀イタリアの画家ジョゼッペ・アルチンボルドであった。~略~混成イメージというのは、当時、シュルレアリスムに特徴的な表現であったが、ベルメールの場合、独自の仕方でそれを採用していた。ダリの混成人物像は幻覚の世界を呼び覚まし、一方、マックス・エルンストのそれは来たるべき恐怖を具現しているように思われる。しかしながら、ベルメールが関心を向けるのはハイブリッドの本質をあらわにすることであり、もつれ合った身体と脚の塊を通して欲望の真の解剖学を明らかにすることであった。」今回はここまでにします。
2026.07.23 Thursday
「死、欲望、人形」(ピーター・ウェブ、ロバート・ショート著 相馬俊樹訳 国書刊行会)の「人形の遊び」について、気に留まった箇所を取り上げます。「ベルメールは自分の芸術が理解され、擁護されているとわかって満足感に浸り、勇気づけられた。その後、もう三年ほどベルリンに留まることになるが、シュルレアリスム運動への参加はすでに彼の生活の一部と化していた。~略~シュルレアリストたちと接触して、ベルメールは『人形』から開始した作品制作を継続すべきであるとの確信を得た。~略~最初の人形制作と同様に今度もまたカメラが果たした役割は決定的であった。だが一方で、大きく異なる点もあった。以前は30枚程度であったのが今度は100枚を超える撮影が繰り返され、またかつては様々な段階で記録された人形の制作過程の物語はさらに洗練されて、倒錯的な性戯の演じられる凝った舞台装置が整えられた。~略~様々に展開される第二の人形表現は、明らかに『痙攣する美』と『過剰の礼賛』というシュルレアリスムの観念を要約していた。新たな写真の見本はパリに送られて、ブルトンがそのあまりの『倒錯性』ゆえに保留にしたものの、ヴァランセ、パリゾ、そしてとりわけエリュアールに暖かく受け入れられた。~略~『人形の遊び』という表題は意味深い。人形はベルメールの少年時代の遊戯との連結装置であり、また大人の遊びにふける際の要ともなる。『彼女らの誘惑はあらかじめ欺瞞を許している。それはうぬぼれであり、無用なものの美しくもあやしげな香りを宿している』。~略~様々な姿態の人形が、その派生的構築物とともに、1930年代を通じてベルメールの主な関心事であったが、もともとグラフィックデザイナーであった彼が絵画をやめるわけはなかった。彼は人形の限界を意識してことあるごとにそれを表明してきたし、同時期のドローイングを見れば、人形という基本的な着想をもっと融通のきく、開かれた可能性のものにする方法を模索し続けていたことがわかるであろう。~略~1937年にマルガレーテは結核で深刻な症状に陥ってしまう。彼女の生涯の最後の数カ月、すなわち1938年の1月と2月にベルメールは妻を慰めようと思い、小さなコラージュ作品を制作した。」今回はここまでにします。