2026.09.16 Wednesday
来年の個展に向けて、現在陶彫による6点の塔を準備しています。陶は三層構造で、そのいずれの部品も陶彫で作っています。これはうしお画廊の床に点在させていく予定ですが、同時に周囲の壁をどうするのかもイメージすることになりました。個展会場がギャラリーせいほうからうしお画廊に変わったことで、画廊の空気感が違っていました。ギャラリーせいほうは壁の一面は大きなガラスになっていて、外に開かれた空間であり、その開放感が彫刻を効果的に見せていましたが、うしお画廊は4面とも白い壁に囲まれていて、閉鎖的な空間がありました。私はそれも面白いと感じて、今年から平面性の強い作品を作りました。ところが個展初日に来廊された方から厳しい指摘を受けました。7月27日付のNOTE(ブログ)に載せた文章を引用します。「『炭景』は木枠を作っていて、その中に展開する世界を描いていたのですが、その木枠が問題でした。絵画のような木枠、そこで区切られてしまうことに対し、床置きの立体作品は開放感のある空間を演出しています。つまり『炭景』と『発掘~六蹟~』の関係性に繋がりが感じられないと彼に主張されました。まさにその通りで、的を得たご意見に反論ができませんでした。」周囲の壁をどうするのかという考えはこの時に始まりました。6点の上昇する塔が点在する風景に見合う造形としては、蔦のように壁を這う紋様がイメージされてきました。しかも6本の塔の状態に対峙するとなれば、壁を這うのではなく、いずれも上昇する紋様にしようと考えています。横方向に這うのではなく、上へ向かう造形。それを壁にどう設置するのか、天井から吊るすのか、床から立ち上げるのか、まだイメージは靄に包まれていて具体性がありません。現在作っている6本の塔にしてもイメージが具現化するまでにかなりの時間を要しました。壁を這う紋様のイメージもおそらく時間を要します。頭の中でアップデートを繰り返しながら、具体的なカタチが見えるまで待っていこうと思います。
2026.09.15 Tuesday
「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著 野中邦子訳 白水社)の第4章である「目撃者としての写真」について、気に留まった箇所を取り上げます。本章はティナ・モドッティの写真についての考察です。「写真による映像はあっというまに世間に受け入れられ、空間と時間を征服するようになった。私たちは過去に起こった出来事の目撃者となったが、これはかつて例のないことだった。戦争、重大な事件、個人的な事件、見知らぬ土地の風景、祖父母の子供時代の顔などがカメラによって記録され、私たちはそれをしげしげと眺めることができる。レンズという目を通して、過去が同時代のものになり、現在は共有されたイコノグラフィーになる。~略~1920年、ウェストンは女優のティナ・モドッティと知りあった。モドッティは1913年、17歳のときに故郷のイタリアからアメリカに渡り、サンフランシスコのイタリア系劇場に出演して地元の人気スターの仲間入りをした。その後すぐ、ハリウッドに進出したが、そこでのキャリアは短期間で終わった。~略~ウェストンにとって、モドッティは本来、モデルであり、被写体にする女体であり、愛人であり、同僚というよりもむしろ気の利いた生徒でしかなかった。モドッティにとって、ウェストンやその後の愛人たち、たとえばディエゴ・リベラなどは、肩を並べる芸術家仲間だった。この差は決定的だった。~略~この時期、モドッティが撮った写真ーくたびれた足、鍬の柄を握った労働者の両手のクローズアップ、農婦と哀れな子供たちの肖像、質屋の前で待つ人びとや汚れた路上に横たわる人びと、労働者のストライキや政治デモーは見る者に現実を直視させるが、その現実にはそれ自体の注釈が含まれる。モドッティは、ある種のドキュメンタリー写真のように、見る者の共感を引き出したり、倫理的な立場を『補強』したりするため、ことさら野蛮さを打ちだす必要はなかった。民衆の覚悟、情熱、雄弁さを記録する彼女の観察力には静かな正確さがある。」今回はここまでにします。
2026.09.14 Monday
「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著 野中邦子訳 白水社)の第3章である「謎だらけの図像学」について、気に留まった箇所を取り上げます。本章はロベルト・カンビンの「暖炉囲いの前の聖母子」についての考察です。「伝統的に宗教絵画の素材とされるもののかわりに、日用品を描くことで、ここでは二つの目的が同時に達成されている。ごくふつうの家庭にいる人間の母親を神の母として描き、それによってキリスト教世界の神聖な高みにもちあげること。そして神聖さの特質を卑小化し、家庭の日用品になぞらえて、神聖な存在に人間味を与えることである。~略~ローマ帝国時代の後期には、太陽神アポロンが頭上に光線でできた冠をかぶった姿で描かれた。光り輝くイメージでは、最初のキリスト教徒の皇帝であるコンスタンティヌス一世の紋章になり(のちにヴェルサイユ宮殿で統治した太陽王ルイ十四世はその紋章を借用した)、またキリスト自身のシンボルにもなった。神の子羊たるキリストにならって、天使や聖人たちはみな神聖さをあらわすこの特別なしるしを受け継いだ。それが頭上の光輪である。そして、絵画表現の特質のなかで、西から東へ伝播した珍しい例の一つとして、光背は中東やインドを経由して広がり、ついにはブッダの頭上を飾ることになった。」最初の絵に戻ります。「暗い片隅には飾り気のない三本脚のスツールがひっそりと置かれている。三位一体の神の存在を思い出させるためだろうか。画家たちにとって、キリスト教美術の始まり以来ずっと、三位一体という考え方は神学の教義という範囲を超えて、扱いにくい図像学上の悩みだった。~略~性器はキリストの人間性をあらわす。永遠の存在としてのキリストは死や性欲とは無縁である。だが、人間としてのキリストはその両方に苦しんだ。したがって、キリストの性器は人間としての彼の人生の両極端を示している。幼児のキリストと死んだキリストである。後者の場合、性器は聖痕のある両手のひらで隠されていることが多い。」今回はここまでにします。
2026.09.13 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。先日、「光、凛とゆれる」展を見て、嘗て憧れたステンレスによる抽象彫刻について考えてみました。そのシャープでスマートな形態は、20代の私を昂揚させるには十分なパワーをもっていましたが、それは単に憧れだけで終わるのではないかと予感しつつ、やはり私にはステンレスを使う必然性がついに生まれなかったのでした。図面を引いて加工していく素材は、自分には向いていないと次第に気づき始めて、それでは私自身のオリジナリティはどこにあるのか、その問いは海外生活でも継続していました。「光、凛とゆれる」展の図録にあった「表現の素地となる素材はとりわけ、作家の精神構造を表す独自性、主体性そのものを表す。その意味でも表現と素材の関係は極めて大きい。」(細田雅春著)という言葉が示す通り、彫刻家にとって素材は重要であり、その素材の選択は自分の彫刻家としての資質に関わっているのです。それでは素材をどう選ぶのか、作家によってはまず素材ありきの人もいますが、私は自分が何を表現したいのか、自己イメージを優先してそのイメージに合った素材を選ぶ方法を採りました。若い頃に憧れたステンレスは既に頭にはなく、自分が紡いだイメージは海外で眼にした発掘現場にありました。そこにあった古代都市の景観と発掘された数々の出土品の質感を自分の中に取り入れるのはどうしたらよいのか、それを頭の中で熟成するのに時間を要しましたが、結局私が選んだ素材は学生時代から慣れ親しんだ土でした。ただ、学生時代にやっていた塑造を石膏に取り、他の素材を流し込んでいく方法ではなくて、土そのものを焼成して、そのまま保存できる状態にする陶彫という技法でした。古代からイメージした形態は、単純化して紋様を加飾するものになり、現在に至っています。そこに木材を加えることがあっても、私は発掘された現場のイメージを陶彫で何年も繰り返し、架空の都市を造形しているのです。
2026.09.12 Saturday
週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週の制作状況は、新作陶彫である6つの塔の二段目にあたる成形をやっていて、毎日陶土に触れる生活を送っていました。先月に比べると気候も涼しくなり、制作がとても楽になりました。私はこの成形や彫り込み加飾を一所懸命やっている時が一番幸せかもしれず、時折全体を見渡しては満足を覚えています。しかし陶彫は成形や彫り込み加飾で終わるわけではなく、化粧掛けを施し、焼成をして、漸くその醍醐味に浸れるのです。そして画廊に新作陶彫を点在させたときの空間変容にも考えが及びます。それは私にとってポジティブシンキングであるため、何度もイメージの更新を行っています。作業の合間に手を休めながら、自作を眺めては楽しい時間を過ごしているのです。さて、今週は現代彫刻の世界で活躍した多田美波の生涯を振り返る大きな展覧会に足を運びました。私の学生時代は野外彫刻展が盛況で、その中でもひときわ端正で豊かな空間を創出していた多田ワールドに久しぶりに触れて、私は思うところが多々ありました。鏡面仕立ての曲面を多用した抽象彫刻は、曲面の中にエッジが効いた直線的で繊細な箇所があり、それが映った周囲の景色を歪めていました。そこに面白みを感じた私は、そのズレを楽しんでいました。私は2009年に箱根にある彫刻の森美術館での個展を見ていますが、彼女はその5年後の2014年に逝去されています。展覧会場を後にして、図録で振り返ってみると、創作に生き、創作に全てを捧げた人だったことがよく分かります。私もそう在りたいと願っています。今週の夜の読書では「奇想の美術館」という書籍を読み始めています。テーマの切り口が自由で、しかも論文の発想がユニークだなぁと思いつつ、やや難解な文章を読み解いています。これから秋に向かっていく季節には好都合かもしれません。