Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 母の七回忌
    週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行なうのですが、それを明日に回して、今日は母の七回忌について書こうと思います。母が亡くなって随分月日が経ったものだなぁと改めて思います。母が存命だった頃、私は教職に就いていました。横浜市瀬谷区の中学校校長会があり、その日は欠席を他の校長に伝えた記憶があります。病院の一室で私は母の遺体と暫く一緒にいました。母は介護施設に入っていて、母と同居していなかったせいで家内も私も介護で辛い思いをしていないため、不思議と気持ちの整理が出来ていました。その日のNOTE(ブログ)によると、こんな文章で記されていました。「私の母が他界しました。享年94歳。大正15年生まれで、大正、昭和、平成、令和の4つの時代を生きた人でした。数年前から介護施設にいて、昨晩体調が悪化して病院に救急搬送され、その時家内と見舞ったのが母の最期の姿になりました。今日は職場に出勤していた私に家内から連絡が入り、急遽病院に駆けつけたのでしたが、11時16分心拍停止、呼吸停止で臨終となりました。」母の葬儀があった日のNOTE(ブログ)も見つけました。「横たわる遺体の風貌は母そのもので、安らかに眠っている姿が印象的でしたが、それは既に母ではなく何か別の雰囲気がありました。不謹慎を承知で言うと、母はもはや母ではないと感じました。人間は生物的な死とは別の、たとえば魂の在り処がどこにあるのか、それが失われるとその人は外見だけを留めた存在になるのではないかと思います。死を哲学できるのは高度な知性を有する人間に限られていて、そのために他界への準備を行い、後に残された人々が死者が歩んでいくであろう死後の世界をイメージできるようになるのだと私は考えます。」今日は自宅近くにある菩提寺で七回忌のお経をあげていただき、その後その菩提寺の一部屋をお借りして昼食になりました。親類縁者や少なくなって、妹一家と私たちだけの会食になりましたが、母を偲んで貴重な時間を過ごすことができました。
    竹橋の「下村観山展」
    先日、家内と東京の展覧会を巡った時に、竹橋にある国立近代美術館で開催している「下村観山展」を見てきました。本展はまだ始まったばかりの展覧会でしたが、多くの人が鑑賞に訪れていました。日本画壇について浅学の私でも、横山大観、菱田春草、そして下村観山の3巨匠についての業績は理解しているつもりです。観山のまとまった作品をじっくり観たのは、私は初めてだったので、超絶技巧による描写に目を瞠りました。東西の古典に学んだ観山の画力には、暫し足を留めて見入るほど凄さが伝わってきました。図録よりその理由を拾います。「先人の創作物に正面から向き合って現代との接点を探すことができたのは、観山がそれを熟知していたからであることは間違いない。~略~観山は古画模写事業をとおしてその『伝統』形式の一端にかかわった。修業の一環として古画を学んできたがゆえに、自分もまた『伝統』の末端に位置することを自覚したと思われる。」(中村麗子著)その実践記録が展示されていて、単なる模写ではない表現に観山独自の世界観も出ていました。また後世に影響を与えたことも図録にありました。「これまで同世代の大観らと比較したため、晩年の宋元画への傾倒は『回帰』という言葉で表され、マンネリ化とも評される一因となってきた。しかし、速水御舟(1894-1935)・徳岡神泉(1896-1972)・岸田劉生(1891-1929)といった次世代が日本画・洋画を問わず細密描写に強い関心を持ち、新たな眼差しで宋元画を見直し、自らの作画の糧にしたことを合わせ考えると、この時期における観山の、技巧を駆使した、より深化した表現は若い世代への応答と見なすこともできよう。」(板倉聖哲著)画面全体に金泥を塗り、遠近によって色彩の濃淡を変えていく手法と写実的描写は、観山のさまざまな作品に見られますが、私を捉えたのは「木の間の秋」と「小倉山」で、確か「小倉山」は横浜美術館所蔵作品として同館で見た記憶があります。本展を巡っていると巧みな描写に目が慣れてきますが、それでもクオリティの高さが「下村観山展」の魅力だろうと思います。
    如月会反省会について
    教職に就いていた頃、何かの研修会で、皆さんは現在何人くらい友達と呼べる人がいますか、と講演者から質問を投げかけられたことがありました。職場では日々危機管理が求められ、その度に仕事仲間と綿密に意思疎通を行ない、その課題解決に全力を尽くしていました。仕事仲間とはその頃とても良い関係で、お互い胸襟を開き、組織で対応することに自分の実力以上のものを発揮していると感じていました。ところが、仕事仲間はあくまでも仕事仲間で、職場を移動しても友達として付き合うことは稀でした。課題を共有し合うからこそ、そうした関係が生まれるので、利害関係のない友達と仕事仲間は別のものと考えた方が良さそうです。たまたま気持ちが通じ合う人がいて、長く友達でいられる人もいるとは思いますが、しかしながら職場を退職すると、社会的な活動は一気に少なくなり、教職で存在感を示した人でも、その後の人生は現職の時のように多忙で充実しているかどうかは疑問です。私の場合は彫刻がやりたくて、その経済基盤を培うために教職に就きましたが、生徒たちとの関係が面白くなり、実際に教職に埋没することが増えてきて、創作活動との駆け引きに難しい局面を迎えることも屡々ありました。ところが創作と言う世界を持つことで私には利害関係のない友達も出来ました。元校長であり、創作活動を共にする人たちとの出会いも私にとっては重要な集まりと言えます。この如月会は年齢で言えば、ほとんどの人が私より年配であり、教職を含めた人生経験は豊富です。展示している作品はともかく、学校ではないところで、お互いの活動に対して意見を述べ合うのも貴重だなぁと思います。そんな如月会の反省会がギャラリーのすぐ近くにある居酒屋でありました。毎年この時期に開催していますが、高齢になる皆さんがまた来年出品してくれることを願うばかりです。
    丸の内の「たたかう仏像」展
    今日は工房へは行かず、朝から家内と東京の2つの展覧会巡りを行ないました。どうしても私が見たい展覧会があり、ひとつは期限も迫っていたので、気候が良くなったこの時期に行ってきたのでした。丸の内にある静嘉堂文庫美術館で開催されている「たたかう仏像」展は開催期間が残り数日になったので、慌てて出かけました。もう一つは竹橋の国立近代美術館で開催している「下村観山展」で、これは始まったばかりです。「たたかう仏像」展はその主題が示す通り、憤怒の表情をしている仏像や仏画ばかりで、私はこうした動的な姿勢を持つ仏像が大好きなのです。やはり仏師代表として運慶が浮かびますが、展示調査によれば善円周辺の仏師によるものという考察が出ています。本展の代表としては十二神将像があり、これが十二支と結びついたことで親しみ易い存在になっているようです。仏像・仏画どれも私にとっては興味深々でしたが、その発想の源となった中国の俑も展示されていました。俑は墓の中に収められた人型の陶器で、俑の像が身に着けていた鎧の形式が仏像にも取り入れられました。展示されていた俑は唐の時代のものが多かったように思いました。さらに仏像の表情が憤怒の中にもさまざまな風貌が現れていて、人間臭い雰囲気に思わず笑みがこぼれました。たたかう仏像は何がそうさせているのか、何のために戦っているのか、その解答が得られる文章を図録の中から拾います。「武装する仏像は、現世に実力を行使する存在として信仰され、造像されたということである。柔和な仏菩薩が本来の姿ではあるが、末法の穢れたこの世にあって、それでは解決される気がしない現世の問題を、仏菩薩の化身として現れて実行してくれる存在として求められたのが、武装する仏像であったのである。『たたかう仏像』の姿が多様なのは、衆生の求めに応じて、衆生に最も近いところで彼らに寄り添いながら、ハードな現世で有効な手段としてはたらくことが期待されたためなのである。」(大沼陽太郎著)そうであるならば、たたかう仏像を必要としているのは現代も同じではないかと思ったのは私だけではないはずです。本展の後に向かった「下村観山展」の詳しい感想は後日改めます。
    「庭園と樹木」について
    「ピクチャレスクとイギリス近代」(今村隆男著 音羽書房鶴見書店)の「第3章  ピクチャレスクと庭園」の「3庭園と樹木」を取り上げます。本単元はマーシャルの「植林と装飾庭園」が中心になります。「この作品(植林と装飾庭園)が出版された1785年は、産業革命のみならず囲い込みと結びついた農業革命が進展した時期であり、農業の中でも特に木材に関わる林業はイギリスの森林が減少する中で国家的な課題になっていた。風景庭園が数多く造園されたのもこの時代で、80年代始めまで活躍したケイパビリティ・ブラウンが死去した2年後に、この『植林と装飾庭園』は出版されている。~略~造園の『人為』の基本は『自然』を模倣し、『有効性』を創出し、望ましい『趣味』を見せること、これら三者を尊重して庭園の『場所』と『目的』に適合させることであると説明する。~略~望ましいのは『自然』と『人為』とが『見事に融合した』場所であり、完全に『放っておかれた』自然よりむしろ、少しは『人間の手の入った』自然の方を彼は推奨する。~略~彼が所有者に対して要求することの核心は『自然から基本的な原理を学ぶ』ことで、そのためには個々の庭の土地をよく観察することによって各々の状況に応じて自らの造園方針を確立すべきとされる。ブラウンがイギリス中に造った数多くの風景庭園が、どこも同じ類型に基づいて造られた画一的なものであったことと比べると、マーシャルが地所ごとの特徴を把握して個別性を尊重するように説いていることは注目に値する。~略~ピクチャレスクとの関係で重要であると思われるのは、マーシャルが視覚以外の感覚も使って『自然と会話』することが肝要であると述べていることである。『自然と会話』するとは、園内を自由に歩き回って細かな観察によって自然の移ろいを感じ取り、自らの精神を共鳴させることであると彼は説く。このような行為が意義を持つのは、『万物創造の神』によって創られた自然を五感によって楽しむことが神の賞賛につながるからであり、森林の持つ意義は当然ながらキリスト教神学の思想に結びついている。しかし、ここには森林浴のような行為に意義を見出す現代的な自然との交わり方に発展してゆく自然礼賛の姿勢を見出すことも可能だろう。」今回はここまでにします。