Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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    今回のブログからコメントの書き込みが出来るようにしました。誹謗中傷も多いと助言してくださる人もいますが、ともかくやってみることにしました。お手柔らかにお願いします。HPも少しずつ充実させていこうと考えています。24時間無休のギャラリーなので、時々新作のアップをしていく予定です。アートデイレクターやカメラマンとの打ち合わせで、あれもこれもと話がはずむのですが、今制作中の作品「囲むカタチ(仮題)」がまとまっておらず、今月もあとわずかとなり、少々焦ってきました。日々時間延長して鑿をふるっています。来年早々に横浜市民ギャラリーで発表する予定ですが、今から心配です。制作とはこんなものかなと自分を宥めながら、でも妙なストレスがない快い世界に浸る毎日です。
    肖像彫刻について
    昨日のブログに具象に対する憧れを書いたのは、自分とは縁のない肖像彫刻について考える機会があったからです。先日長野県に行ってきましたが、碌山美術館に行く前に立ち寄った豊科近代美術館には高田博厚による肖像彫刻が数多く所蔵されていました。高田先生の著作は読んでいても、これほどたくさんの作品を見る機会が今までなかったので、少々驚いて感じ入るところがありました。高田先生は内外の著名人の肖像を作られている方で、音楽や哲学にも造詣が深く、理性と精神性をもった人というのが自分が捉えている高田博厚像です。確かに肖像には気品が漂い、巧みな表現に驚きました。ただ勝手な感想をもらすと、並べられている空間故なのか古さが目立ち、棺の中にいるような錯覚を持ちました。肖像彫刻は造形的な普遍さはあってもその人が生きた時代を移す鏡のようなもので、鑑賞する側には何か作品以外のものがつきまとう感じを残すのは自分だけでしょうか。
    表現や素材に対する浮気
    ストイックな抽象表現をやっていると、具象的な表現に憧れ、人物を塑造してみたくなります。具象的なカタチには自分の頭では考えられない様々なカタチがあって観察を極めたくなるのです。抽象と具象は割り切って区別できるものではなく、具象を純化してみたり、また具象に戻ってカタチを発見したりの連続なのかもしれません。素材も粘土のような可塑性のある素材を扱う一方で、木や石のようなカービングをやってみたくなります。現在木を扱っているのも陶彫からしばらく離れて見たいと思ったからです。こうした浮気を繰り返して表現が深まるのだと思います。人との関わりではそういうわけにもいかないところもありますが、本能に忠実に生きている芸術家であれば、浮気な生涯を送ることもあるでしょう。
    久しぶりに碌山美術館へ
    荻原守衛(碌山)は自分が大学で塑造を習い始めた頃、最初に影響を受けた彫刻家です。その頃から碌山美術館に通い始めました。もう20年以上も前のことです。当時は新宿から各駅の夜行に乗ると朝早く穂高駅に着くので、そこから歩いて美術館に向かったものでした。昨日は池田先生宅訪問の後、久しぶりに碌山美術館に行ってみたくなりました。車で行くと、美術館の周囲が開けていて少し戸惑いました。向かいにあった蕎麦屋は変わらず、裏の中学校はこんなに大きかったかなと改めて思い返しました。中原悌二郎等の作品が新館に移り、かつて展示してあったところが売店になっていました。碌山の作品を見て昔ほど興奮しなくなってしまいました。学生時代の感傷に浸る程度のもので、何か不思議な感じがしました。
    キリスト教彫刻と「エルミタ」
    池田宗弘先生の最近の仕事はもっぱらキリスト教に関するもので、麻績のアトリエもいずれ祭壇を作り教会にする計画があるそうです。画家藤田嗣治はフランスの田舎に小さな礼拝堂を建てて自作の壁画で飾り、自らもそこに葬られていますが、池田先生も同じようなことを考えているのでしょうか。先生のアトリエは「エルミタ」と称しています。隠れ家という意味だそうで、彫刻界では数々の賞を取った先生ですが、今は世間に惑わされず、隠れ家でやりたいことをやっていくとおっしゃっていました。数年前に奥様を亡くされてから自炊を余儀なくされたようですが、今はレシピを書かれるくらい料理を工夫するようになったともおっしゃっていました。秋にまた来ますと約束して「エルミタ」を後にしました。