2024.08.13 Tuesday
モビールで有名なアメリカ人彫刻家アレキサンダー・カルダーを知ったのは、私が学生だった頃でしょうか。いろいろな有名美術館に所蔵されているモビールの作品は、その浮遊感と平面に施された色彩で、心に爽やかさを与えてくれるオブジェです。私は嘗て東京でまとまったカルダーの展覧会を見ているので、その記憶を辿ってみましたが、なかなか思い出せないためネット記事を確認してみました。カルダー展は35年前に池袋にあった西武美術館(現在はなし)で開催されていたようです。私は学生の頃より西武美術館に頻繁に行っていたので、あるいはそこで初めて眼にしたのかもしれません。カルダーは1898年に生まれ、1976年に没したアメリカ人彫刻家で、若い頃は工科技師として働き、1920年代にサーカスを題材にした針金彫刻で人気を博します。1930年代にフランスに渡り、動く彫刻モビールを考案しました。モビールはマルセル・デュシャンによって名づけられたようです。またその逆に動かない抽象彫刻スタビルも考案し、これはジャン・アルプによって名づけられたようです。今日私が家内と訪れたのは東京港区の麻布台ヒルズにあるアート・ギャラリーで、昨年開館したばかりの新しい美術館でした。「カルダー:そよぐ、感じる、日本」と題された大掛かりな展示は、壁面の演出もあって、カルダーのモビールやスタビル、スタンディングモビールを鑑賞するのに最適な空間を作っていました。本展で私は初めてカルダーの平面作品を見ました。昔の展覧会にもあったかもしれませんが、ある意識を持って鑑賞したのは初めてで、ジョアン・ミロのような屈託のない自由なフォルムが描かれていました。それでも私は抽象形態が浮遊するモビールが好きで、しかも面だけでなく線も多用して、独特な美しさを空間に描いていました。映像によるモビールもあり、風が織りなす優雅な旋回は見ていて飽きないと思いました。
2024.08.12 Monday
「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅲ 現代抽象美学の形成 」の中で具体的な芸術家を取り上げていますが、今回の単元はドイツ人画家パウル・クレーです。クレーはドイツのバウハウスで教壇に立っていました。「『教育的スケッチブック』はデッサン論などというものではない。ここでは、線から発してフォルムの完全な知識に達し、さらにフォルムの内と外に、生命の神秘そのものをとらえることが問題なのである。線は、おのれ自身を追求し、さらに空間における自分の位置と動きをみずから決定し、定着する、独立した、生きた力とみなされている。デッサウのバウハウスは、装飾芸術、あるいは《応用芸術》の学校で、ドイツ系の大芸術家たち、特にライオネル・ファイニンガーやクレーが教鞭をとっていた。クレーの授業はきわめて正確、厳格なものだった。実際クレーは、正確、厳密な手段を自分のものにしないかぎり、想像力を極度に自由にくりひろげることもできないことを知っていたのである。」さらにハーバード・リードの言葉がありました。「『クレーの芸術は形而上学的な芸術である。これは外見ならびに内実に関するある哲学を要求している。この芸術は通常の知覚を真実とも十分とも認めない。眼の見るものは気まぐれで限られているー外部に向かって導かれるからだ。内部は別の世界であり、いっそうすばらしい世界である。この世界を探検せねばならぬ。画家の眼は鉛筆に集中する。鉛筆は動き、線が夢みる。』《線の夢想》、これこそパウル・クレーのタブローのもっとも特徴的な要素のひとつである。~略~『クレーにとっては、芸術は自己分析を意味している。かれはそれゆえ、作画の過程において芸術家の精神内部にどういうことが起こるか、どんな目的である素材を採用し、またどんな特別な効果をねらってこれらの素材に特殊の限定と次元を与えるのかをわれわれに語るのである。かれは現実の種々の段階や秩序のあいだに明確な区別を設け、芸術家が独自の現実の秩序を創造するのを擁護する。しかしかれは、こうした超絶的世界も、芸術家が自己の秩序のうちに暗に含まれているある種の規範に従わないかぎり創造されえないことをはっきり指摘している。芸術家は生命の起源ー《空間と時間全体の中枢》ーにまで浸透しなければならない。そのときはじめて、かれは自己に固有の技術的手段によって生命力にみちた作品を生みだすのに必要な、エネルギーと自由を得るであろう。』」今回はここまでにします。
2024.08.11 Sunday
日曜日になり、創作活動について書いていきます。このところ次第に新作のイメージが朧気ながら現れてきました。新作も従来の集合彫刻の発展形であることは間違いなく、陶彫作品を組み合わせて大きな塊にしていくものです。私の実家を解体した時に母屋を支えていた大黒柱を陶彫作品と絡ませる計画を立てましたが、古木には彫り込みを入れて、そこに陶彫作品を設置する予定です。その彫り込みもさまざまな凹凸を作っていくつもりなので、全体構想としてはまだまだ明確で緻密なイメージはありません。現在決めているのは古木に彫り込みを入れても、彫り込まない面を鑿等で削ることはせず、ただ炙って炭化した状態にしておこうと思っていることです。焦げた古木と陶彫作品の組み合わせが面白いのは、旧作で証明済みです。先週から新作の第一歩として、まず新たな陶彫作品を作ってみました。陶彫作品は昨年まで作っていた陶彫立方体と同じ矩形になります。有機的で曲面を多用した形態は新作には使いません。陶彫という素材は曲面も面白い効果が出るのですが、新作は直線的な矩形を組み合わせていきます。今まで作ってきた陶彫立方体のような定型がないため、その都度構想して形態を新たに作ります。陶彫作品同士の組み合わせは従来の形に戻すことにしました。2年越しで作ってきた陶彫立方体の最終設置は、その場の環境によってスタッフを含めた人たちで決定してきましたが、新作はそうしたインスタレーションの要素はなく、決められた構図に従って組み立てていくものです。設置の面白みは欠けますが、異質な素材をコラボレーションする面白みが出てくるのではないかと思っています。新作は同時に平面作品も立体作品と同じ視点で作っていくつもりです。平面と立体は別々の作品ではなく、双方があって空間が形成されるようにしていきます。新しい展開は常にあって、空間に対するチャレンジ精神を失わずにいたいものです。
2024.08.10 Saturday
週末になりました。今週を振り返ってみたいと思います。毎日、身体に応える酷暑が続いていて、空調設備のない工房には長く留まれず、新作のイメージも朧げなままで、なかなか具現化できない状態です。朝はいつも通り9時に工房に入りますが、午後は早めに切り上げていて、自宅でボンヤリ新作ことを考えている有様です。まだ焦る状況ではありませんが、古木にさまざまな彫り込みを入れて、そこに陶彫部品を設置して、古木と陶彫を絡ませる表現を模索しています。今週は葬儀や墓参りがあって、創作活動以外の用事がありました。3年前に私が退職した学校の創立に尽力した地域の方が亡くなり、私はお通夜に行きました。当時の懐かしい地域の方々や仕事を引き継いだ現校長も来ていて、暫し昔のことが頭を過りました。その亡くなった方は元デザイナーで、陶友会を立ち上げ中学校の地域交流に貢献しました。私が市内でも数少ない美術科校長だったために、その方と美術に関する話をさせていただきました。その方の年齢からすれば戦時中だったにも関わらず、よく美術の道へ行かれたなぁと思っていたところ、やはり周囲の軋轢が強かったようでした。今日の土曜日は、家内と朝のうちに近所にある菩提寺に墓参りに出かけました。今日から盆休みに入ることもあって、そのうち菩提寺には多くの方が訪れるのではないかと察しています。寺院の境内にある鐘楼の脇に百日紅の大木があり、花を咲かせていました。その花が青空に映えて気持ちが癒されました。墓参り等は生きている人たちのためにあるというのが私の持論で、そこで清々しい気分になれるのが理想です。その後、工房に行って陶彫制作に汗を絞りました。この酷暑の状況はいつまで続くのでしょうか。
2024.08.09 Friday
「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅲ 現代抽象美学の形成 」の中で具体的な芸術家を取り上げていますが、今回の単元はロシア出身でドイツで活躍した画家ウァシリー・カンディンスキーです。「カンディンスキーの抽象的な芸術とロシアの聖画像とのあいだにみられる血縁性は、後者がまったく具象的なものであるにせよ、いかにその内部に抽象作用を有し、それを表現の手段としていたかを示すものである。中世芸術はーロシアでは中世芸術の生命はきわめて長かったので、今日でもなお宗教芸術や、またある程度まで農民芸術に霊感を与えつづけているー人間の形態をその純粋に再現的な価値にもとづいて利用するのではなく、はるかにその象徴的価値、暗示性、寓意性にもとづいて利用した。」さらにこんな文面もありました。「カンディンスキーにおける純粋抽象への移行は、改宗といった意味のものではなく、まさにその反対、つまり当然の帰結だったのだ。1910年以前の具象的作品はすべてその前奏にほかならなかった。別の言い方をすれば、私の見るところでは、カンディンスキーは、具象的伝統に従っているときでさえつねに抽象家だったのだ。したがってかれのうちに働いていたのは、外からの啓示ではなく、成熟、彫琢、感情の内的練磨、さらには気むずかしいかれの想像力や、形と色に対する熱烈な愛に奉仕する媒材や技法を構成する際の強烈な創造力の集中などであった。」彼の有名な著書に触れた箇所もありました。「『芸術における精神的なものについて』で表明された諸原理を検討しながら、ギーディオン・ヴェルクナー夫人はこう書いている。『ここにみられるのは、新しい描き方などではなく、芸術と生命を把握する方法を全面的にくつがえしたものである。』夫人はきわめて正当にも、ここに『新しい美学とそれに呼応する形態の言語によってのみ表現しうる感情的生命の、力と真実性に関する、哲学的な、ほとんど宗教的な告白』を見ている。」最後にカンディンスキー自身の言葉を引用いたします。「ひとつひとつの作品は、それぞれ新しい技術を生みだす。それはちょうど、宇宙が異変から異変を通じて、宇宙的要素の混沌たる騒擾から生じる交響楽、すなわち天球の音楽とよばれる交響楽を生みだしたのと同じことである。作品を創造すること、それはひとつの世界を創造することだ。こうして、パレットの上やチューブのなかの色彩の発見は、私にとっては精神的体験となった。これらの色彩は、まぎれもなく、魂を持った存在に似かよっており、その魂の秘められた力は、芸術家によって働きかけられると爆発し、みずからの姿を現わすのである。」今回はここまでにします。