2024.11.17 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動について述べていきます。私が40年以上も扱っている素材は土で、土から離れて木彫や石彫をやっていた時期はありません。一時的に木彫をやっていたことがありましたが、再び土に戻っています。大学に入る前に小・中・高の授業で触っていた土と、彫刻と言う専門の勉強の中で扱う土はまるで違っていました。まず大学では回転台の上に心棒のついた土台をのせて、針金や棕櫚縄、小割などで人体塑造の心棒を作ります。そこに粘土を貼り付けていきますが、可塑性のある粘土は空間にデッサンをするには優れた素材です。最初に塑造を体験した時は、粘土を愛おしむような扱いはなく、ひとつの素材として人体を正確に把握するための道具でした。私の中で粘土に対して気持ちが変わってきたのは、塑造された人体を石膏で雌型を取り、そこに別の石膏を流し込んで、保存のきく石膏像に換えた時でした。大学では暫くこの方法で作品を保存していましたが、粘土は粘土、石膏は石膏と別の表現になってしまうことに嫌気がさしていました。それが樹脂になってもブロンズになっても同じではないかと思っていました。粘土を固めて保存することはできないか、これが粘土を陶土に換えた理由です。塑造した作品は乾燥させて、窯に入れる、そこから自分独自の表現を求めた旅が始まったのでした。器などを轆轤でひく陶芸と違って、陶彫は焼成との闘いでした。焼成があるからこそ制作工程が存在し、タタラと紐作りの併用を思いつき、内側をがらんどうにするからこそ、つぶれないように重力のことを考える、つまり常日頃から放置できない状況になっているのです。それでも窯から出た時の陶彫の存在感は、私にとって格別です。陶土は焼成によって石化するので、その変貌が嬉しくて今まで付き合ってきていると言っても過言ではありません。
2024.11.16 Saturday
週末になりました。今週を振り返ってみたいと思います。今週も日々朝から夕方まで陶彫制作に明け暮れていました。秋も深まり、工房での作業がやり易い季節になり、創作活動にも弾みがつきました。だからと言って陶彫制作はきちんと段取りを踏まないと作品が出来上がっていかないので、作業ペースは夏と同じです。一気呵成にいかないのが長所でもあり短所でもあります。今週は先週と同じように美術館に出かけた日がありました。週1回の鑑賞の機会があり、それを実施できるのは、私にとって幸福としか言いようがありません。先週は「英一蝶」の展覧会や仮面の展覧会に足を運びましたが、今週は府中市美術館にチェコの画家「ミュシャ」を見に出かけてきました。調べてみると毎週1回は窯入れをしていて、窯に入れた翌日に美術館に行っています。これは私の理想とするスケジュールで、実技と鑑賞が車の両輪のように嚙み合っているのです。ミュシャは平面の世界に、流麗な女性と装飾を組み合わせた世界を創った画家であり、スラブを象徴する世界を重厚な油彩画で表現した画家でもあります。その持続する画魂を私は見習いたいと思いました。加えて昨日のNOTE(ブログ)に書きましたが、府中市美術館が所蔵する野外彫刻に若林奮「地下のデイジー」があり、それを見て私は自らの彫刻観を振り返るとともに、もう一度新作のコンセプトを確認し、意欲を沸き立たせました。今週も週2回は近隣のスポーツ施設に通っていて、水泳と水中筋トレをやってきました。スポーツの後、工房での2時間程度の作業が、このところ筋肉がだるくて厳しいものがあるのです。寄る年波なのか、スポーツに勤しんだ後の創作活動は、筋肉痛があってどうもうまくいきません。少し自宅で休むと身体は回復しますが、そこから工房にもう一度出かけていく気がしなくなるのです。まだ、完成を焦る時期でもないので、スポーツの後は自宅でゆっくり休むことにしました。先週も書きましたが、今週もあっという間の1週間でした。
2024.11.15 Friday
昨日、「ミュシャ展」を見に府中市美術館を訪れた折に、久しぶりに見ておこうと思った野外彫刻がありました。1点は保田春彦「球を囲う幕舎」のステンレスによる巨大な作品で、もう1点は若林奮「地下のデイジー」。これは鉄による独特な表現をしている作品です。私が大学で彫刻を学んでいた時代に、保田先生と若林先生が共通彫塑の教壇に立っておられました。府中市美術館所蔵2点のうち若林先生の「地下のデイジー」に私は惹かれていて、その設置の発想に衝撃を受けたことを思い出すのです。美術館が用意した同作品に関わるパンフレットによると「若林はしばしば作品の一部を意図的に隠そうとしました。作品の中に別の作品を収納してしまったことや、《地下のデイジー》のように、地中に埋めてしまったこともありました。《3.25mのクロバエの羽》(1969年)は、大阪の万博公園に、幅約8メートル、奥行き約5メートルの屋根だけ見せて、1メートルほどの天井高のある鉄製の箱を地中に埋めてしまった作品です。こうすることで若林は、残されたもの、見えているものの一方に、失われたもの、あるいは私たちには見えていないものがある、ということを示そうとしたのです。」これは世の中に存在する物体は全て、その一部しか視界に入ってこないため、物体の裏の部分は想像で補っていると私は解釈しています。つまり立体の見えない部分は、仮想して背面はこうなっていると脳が認識しているに過ぎないと考えているからです。私が現象学や存在論を学び始めた契機がここにあります。私の作る「発掘シリーズ」も作品の一部を床上に配置したりしています。これも埋もれた部分を敢えて鑑賞者に想像してもらおうと考えているのです。私は若林先生のように実際に制作して、それを地中に埋めることはありませんが、物体(作品)は一部分しか見えておらず、全体像は想像の産物として認識しているという考え方に賛同しています。私は「地下のデイジー」を見て、久しぶりにその考え方が頭を巡りましたが、作品プレートがない野外彫刻を鑑賞者がどう見ているのか、ましてや作品のほとんどを地中に埋めてしまっている作品なら、少し出っ張ったマンホールくらいにしか見えないのではないかと思いました。
2024.11.14 Thursday
昨日の夕方、窯入れを行ないました。それによって工房での窯以外の電気が使えず、今日は工房で温度確認を行った後、家内と車で東京都府中市に向かいました。府中市美術館へは幾度となく行ったことがあって、きっと周囲の公園は紅葉しているのだろうと期待をしていました。紅葉した樹々と開催中の「ミュシャ展」の雰囲気はよく合っていて、家内も心なしか楽しそうでした。「ミュシャ展」の副題は「ふたつの世界」で、これは版画と油彩画の世界を表したものでした。チェコで生まれたミュシャは、パリで大女優の主演舞台をテーマにした宣伝版画を描き、一躍有名になりました。その後、当時流行ったアール・ヌーヴォー様式の版画で時代の寵児になったミュシャは、大量に仕事が舞い込みますが、40歳を過ぎてから自分の出生であるスラヴ民族をテーマに据えて油彩画を描き始めたのでした。ミュシャの名声は一時的に堕ちますが、この時に描いていた「スラヴ叙事詩」を、嘗て見た私は感銘を受けました。2017年に来日したこの巨大な油彩画に私の心は震えました。本展にもその関連作があって、改めてミュシャの油彩画を堪能いたしました。図録にこんな文章がありました。「版画はアール・ヌーヴォー、油彩画は象徴主義の絵画として語られたことで、版画と油彩画はますます遠く離れたものとなってしまったのである。しかし、実は、象徴主義の画家としてのミュシャを語る上で版画は欠かせないし、アール・ヌーヴォーの全体像を理解する上でもミュシャの油彩画は欠かせない。」さらに時代は領域を超えた芸術表現が始まっていて、ミュシャには追い風になっていました。「伝統的な絵画と工芸の秩序だったあり方が崩れつつあり、さらに、今日、私たちがイメージする『デザイン』というものが生まれる直前の時代。そして、前衛的な表現が生まれる一方、伝統絵画も尊重されていた時代。ミュシャの造形は、美術をめぐる様々な価値観が混沌と存在していた時代だからこそ、生まれた。」(引用は全て音ゆみ子著)本展でもポスターになったリトグラフ(版画)と重厚な雰囲気を醸し出す油彩画が並べられていて、時代を追ってミュシャの辿った生涯が見渡せる展示になっているため、ミュシャの総合プロデューサーとしての力量に圧倒されました。私は美大で学んだせいもあって、彼のデッサンも気になりました。完成されたポスターよりも迷いが生じているデッサンの方に私は個人的に気迫を感じました。
2024.11.13 Wednesday
「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅴ 抽象絵画の主流 」の終盤になりました。「アカデミックな絵画は、19世紀後半までそれにだいたい忠実であった。一方、すでに見たように、近代芸術家たちは、ちょうどかつてのヘレニズム時代の画家や宋代の中国人たちのように、かれら独特の空間を築いたのである。この空間のほとんど総体的な主観化の火ぶたを最初にきったのは、セザンヌであった。かれについで、フォーヴとキュビストと、青騎士の表現主義者たちが、やはりかれらの空間を想定し、それに、単に個人的にとどまらず、客観的ー普遍的な価値を賦与した。『抽象』画家とともに、空間の征服は、もっと複雑で同時にもっと自由なものになった。」本書はどこで終えるのか、論考の最後に抽象芸術の行く末として公共的な空間への進出がありました。「デ・スティールのグループの思想には、きわめて現実的で明白な社会的使命があった。ヴァン・ドースブルグもモンドリアンも好んでみずからを『新しい生活の建築家』とみなしていた。かれらにとっては、狭い個人的な芸術作品の個人主義的な喜びなど問題ではなく、重要なのは、集団生活に浸透し、それを鼓舞しうるような新しい美の形式をつくりあげることだった。この点で、デ・スティールの原則は、ウァルター・グロピウスの指導によったワイマールのバウハウスの組織に支配していた原則と一致する。バウハウスも同じように、あらゆる分野におけるー装飾芸術、演劇、バレー、映画、それからいうまでもなく建築から都市計画にいたるまでのあらゆる分野における芸術の根本的な変革に直面していた。生活に直接に応用される集団的な美学に向かって抽象芸術が進んでゆくこの傾向、ーそれは、都市や庭園の新しい構成によって集団の感受性に直接働きかけ、分割できぬ諸要素でできたひとつの全体、ひとつの総体として、人間の感受性に視覚を通して影響を与えるものだがーこれは建築家と画家と彫刻家の緊密な協力を主張する『空間集団』(グループ・エスパース)のブロックやピエなどにも同じくみられる傾向である。」本書を長々と読んできましたが、今回で本書を閉じることにいたします。