2024.08.08 Thursday
「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅲ 現代抽象美学の形成 」の中で具体的な芸術家を取り上げていますが、最初の単元ではオランダの画家ピエト・モンドリアンについて論述しています。ここでは画家であると同時に理論家であったモンドリアン本人の著述を2つ引用いたします。「非自然化は人間の進歩の本質的な焦点のひとつであり、したがってネオ・プラスティシスム(新造形主義)の芸術においても第一義的な重要性をもつものである。非自然化の必要を造形的に示したことはネオ・プラスティシスム絵画の強みである。この派の絵画は、構成要素をも、これらによってつくられる構図をも非自然化した。この絵画が真の抽象絵画であるのはまさにそのためである。非自然化、それは抽象化である。抽象化によってわれわれは純粋に抽象的な表現に到達する。非自然化、それは深化である…」さらにこんな文章も綴っています。「われわれは線と純粋な色彩との純粋な関係の上に基礎を置く新しい美学を欲する。なぜなら、純粋な構成要素の純粋な関係のみが純粋な美に到達しうるからである。今日純粋な美は、われわれにとって必要であるばかりか、あらゆるもののうちに存在する普遍的な力を純粋に表わしうる唯一の手段となっているのである。この純粋な美は、過去において神性の名のもとにそのヴェールをぬがされたもの、すなわちわれわれ卑小な人間が生きるため、均衡を見いだすためには絶対不可欠なあの存在と同一のものである。というのも、事物はわれわれに対立し、もっとも外的な素材といえども、われわれにたたかいを挑むものだからである。」モンドリアンの幾何的な抽象作品は、本人が打ち立てた法則とどう関係を保っていたのか、こんな記述もありました。「モンドリアンが自分のタブローを、自分のたてた諸原則の証明と見なさなかったことは、かれの真の偉大さを示すものである。いうならば、かれは自分の理論を作品に適用したのであって、作品を理論に適用したのではない。それこそかれの作品が今なお生き生きとしている理由である。」今回はここまでにします。
2024.08.07 Wednesday
「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅲ 現代抽象美学の形成 」に入りますが、この章には具体的な芸術家が登場してきます。頁を捲ってみると、モンドリアン、カンディンスキー、クレー、クプカ、ドローネー、マーレヴィッチの作品に関する論考が綴られています。このNOTE(ブログ)にはそれぞれの芸術家について別稿で取り上げていく予定です。その導入として「絵画の新しい道」という文章がありました。「すべての運動に共通していた純粋な形態への飛躍には、多少なりともはっきりと、抽象への傾きがみられる。これらの《エコール》は、それぞれ独自の仕方で抽象精神を分け持っている。しかも抽象芸術がこれらの流れのどれを選ぶかによって、そこに特殊な性格が生まれてくるのであり、どの要素が支配的であるかによって、抽象芸術の性格も、科学的、主知的、ロマンティック、印象主義的、表現主義的等々の色合いを帯びるといえる。」 ここで後世になって表現主義グループとも捉えられる「青騎士」の抽象芸術に与えた影響が述べられていて、とりわけフランツ・マルクの言葉が印象的でした。「ヨーロッパ人ー今なお残っているきわめて少数のヨーロッパ人ーが、自分たちに形式的概念の欠けていることを苦痛をもって認める日は遠くないだろう…かれらは新しいフォルムを過去や外部世界や自然の様式化された外観のうちには求めず、かれら自身の内部からフォルムを組み立ててゆくだろう…未来の芸術は、われわれの科学的信念に形を与えるだろう。これはわれわれの信仰であり、真理である。そしてこれは、世界がかつて見なかったほど偉大な様式、大がかりなフォルムの再評価を生みだしうるほどに深刻で強固な真理である。」そしてカンディンスキー関連の論考に繋げて、こう結んでいます。「カンディンスキーをはじめとするだれかれが、宗教的な面を強調しながら芸術を語ったことは、抽象作用に対して、そもそもの出発当初から、深い真面目さ、内観的な精神性、おのれ自身の(フォルムの検証を通じての)検証、知的で倫理的な自我の強調といった性格を賦与したのであった。そして個人主義は、以後宇宙との交感と矛盾するものではなく、かえって交感自体にいっそう多彩で豊富で完全な色彩をそえるものとなったのである。」今回はここまでにします。
2024.08.06 Tuesday
「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅱ 抽象作用、人間精神の恒常性 」の気になった箇所をピックアップいたします。「抽象化の過程を生みだす要因は大きくいってふたつあり、そのまま人間精神の二大傾向に対応している。すなわち、装飾本能と宗教感情である。前者にあっては、なまの形態は単なる装飾的モティーフとしてのみ扱われ、それ以上の装飾的意図は介入しない。このことは、われわれがその精神内容を熟知しているヨーロッパ芸術に関するかぎり、かなり容易に見ることができるが、いったん欧州以外の芸術の、あまりにも広く複雑な領域に足をふみ入れると、われわれは概して、装飾本能の占める部分と、象徴や寓意や記号の占める部分との境界線を明確に引くだけの知識に乏しいので、この点に関するわれわれの結論も保留つきのものとならざるをえない。われわれは時折、実際には宗教的伝統にしたがって描いている形態を単なる装飾モティーフと解して怪しまないことがある。それは実は、芸術家やかれの働いている社会の眼からみて、物や生物の自然主義的再現が、異例の存在、唯一の存在、至高の存在、神聖な存在を人間や事物の形に描くことによって卑俗化、通俗化し、日常的な次元にまで引き下げる欠陥を持っていると思われるたびに、新たな抽象化を触発する原動力となっているのである。~略~『幾何学は、つねに存在するものの学である。』とプラトンは『共和国』のなかで言っている。この言葉に注釈はいらない。それほどこの言葉は明白な真理を語っており、強い説得力をもっている。幾何学的形態のうちにひそんでいるこうした永遠的で普遍的な属性は、芸術家をしてこの無限に完璧な構造に、少なくとも近づきたいという欲求を起こさせる。」そんな抽象の秘めた困難さが次の文章で述べられています。「先史時代以来、具象の流れと抽象の流れは同時に現われているが、後者は前者ほど知られていなかった。それは、洞窟に描かれた動物の形の力が抽象的なデッサンよりもずっと見分けやすいし、元通りに再現しやすいからだ。抽象的なデッサンは非常にしばしばみられるのだが、具象的なデッサンとは比べものにならぬほど理解しがたく、それゆえまた解釈しがたいのである。」今回はここまでにします。「Ⅱ 抽象作用、人間精神の恒常性 」はこれをもって終了いたします。
2024.08.05 Monday
「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅱ 抽象作用、人間精神の恒常性 」の気になった箇所をピックアップいたします。まず冒頭の文章です。「芸術のそもそもの起源から、いいかえれば先史時代から、人間の創造には二つの大きな流れがあった。ひとつは人間を取り巻く物、また人間の夢に現われたり想像のなかに現われたりする物ーすべてこれらは《未開人》の精神にとってはひとしく現実的なものだったーを再現しようとする欲求を人間に起こさせる流れであり、他のひとつはこれに対立する流れ、すなわち物のかわりとなる記号を人間に生みださせ、これらの記号に真に表現的な価値を与え、これらをして真に《美的な事物》、象徴的形態たらしめようとする流れである。」ただし、先史時代は資料が少ないため研究には慎重にならざるを得ない状況もあります。「われわれはあまりにしばしば仮説や憶測で満足し、しかも本来これらの仮説や憶測には備わっていない正確さをこれらに与えようとする。具象形態と記号とは、絶対的に対立するものではない場合が多い。たとえば中国の古代文字にあってはー今日の漢字はこれの様式化、知能化なのだがー文字はものの形であると同時に記号であり、多くの場合装飾自体が実際の文字になっているのである。」また西欧の文化から具体的に踏み込んだ論述もありました。「いわゆる《本格芸術》は具象的で、抽象的なのは《応用芸術》であるという事実だけで、先史芸術における抽象作用の役割を決定してしまうのは誤っている。実際には具象と抽象のふたつの流れは同時に現われている。これらふたつの流れは、具象的形態および抽象的形態の双方の形をとって、同じ宗教的、呪術的分野にひとしく現われているのである。たとえば、先史時代彫刻のふたつの傑作、ヴィルレンドルフ(オーストリア)の《ヴィーナス》とレスピューグ(フランス)の《ヴィーナス》とを比較してみれば、前者が自然主義的性格のものであり、後者がブランクーシの製作過程に似た過程をとって、具象から抽象に向かっているものであることがわかる。」今回はここまでにします。
2024.08.04 Sunday
日曜日になりました。日曜日は創作活動に纏わる話題を取り上げていきます。私の彫刻制作で最も気を遣うのが陶土の乾燥具合と焼成です。陶彫をやっている以上、素材が気温の上下や湿度によって左右されることは百も承知ですが、最近の体温に迫る気温の上昇には、作業する側の体力や気力に影響が出ますが、それだけではなく陶土の変化にも少なからず影響があると実感しています。私の使う素材は複数の陶土を土練機にかけて混合しています。きちんと計測器にかけて混合配分を考えていますが、土練機から出てきた混合陶土を拳4つ分くらいの大きさにして菊練りを施しています。それをビニール袋に包んで一日以上放置するのです。それからビニール袋から陶土を取り出し、掌で叩いて座布団大のタタラを作ります。その時の陶土の柔らかさの具合が気温によって異なります。水分の蒸発が関係していると思いますが、季節によっても違うと感じます。私は陶土を生き物のように比喩していて、常に世話をしている必要があると思っているのです。その素材の特徴が私にとっては重要だったわけで、教職との二束の草鞋生活が出来たのは、この特徴によるところが大きいのです。木材や石材は制作途中でどんなに放置しても、素材に変化は起こりません。そういう素材であるなら多忙極める教職にあって、創作活動は二の次になってしまう恐れがあります。そこへいくと陶土は長く放置することは出来ません。気候によっても陶土は変化してしまいます。仕事がどんなに忙しくても、素材の面倒を見ないわけにはいかないのです。学校帰りに美術室にある陶土を必ず触り、その変化に気づいて、時に水を打ち、場合によっては練り直す必要も生じてきます。教職を退職してからは毎日工房に出かけ、陶土に触れています。陶土との理想的な付き合い方が始まったと言えます。制作工程最後の焼成も手の届かない窯内で、陶土に石化という変化が起こります。これも神経を使う工程で、だからこそ陶彫は面白いと感じているのです。