2024.07.14 Sunday
日曜日になりましたが、今日は東京銀座のギャラリーせいほうでの19回目の個展搬入日となりました。今回は作品数の多さでは過去最大で、搬入から展示終了までの時間がかかりました。朝10時半に運搬業者3名が大型トラックで工房にやってきました。私が声をかけたスタッフは4名で、一人は後輩の男性彫刻家、残り3名は私の教え子たちで全員女子でしたが、その中に美大生も含まれています。私を含めると総勢8名で東京銀座に向かいました。三連休の中日で高速道路の渋滞状況も心配していましたが、思っていたより時間はかからず、トラックから荷を下ろし、空になった木箱や梱包用シートをトラックに戻したのは、それでも午後1時を回っていました。銀座ライオンで昼食の予約時間を越えていたので、私のスマホに店から確認の電話がありました。業者を帰して、スタッフ4名と私で楽しい昼食を取りました。何か楽しみがないと搬入と展示はつまらない作業になるため、自分たちに料理という褒美を与えたのでした。レストランからギャラリーに戻って、額装したRECORD12点の展示に取り掛かりました。ギャラリーは直接壁にクギでパネルを留めるため、その作業にかなり手間取りましたが、同時に陶彫作品はギャラリーの壁に積む作業を行い、中央の床にも渦を巻くように配置して、漸く展示が終了しました。それから教え子たち3人が代わるがわる三脚に乗って照明の当たり具合を調整しました。全てが終わったのが午後5時を回っていました。スタッフたちは私に最終確認を求めましたが、ほとんど自分たちで考えて仕事をやっていました。そこが美術系のスタッフの頼れるところで、作品をどう見せたらよいかを心得ているのです。今年も何とかここまで漕ぎつけたことで私は安堵しました。明日はオープニングです。私は最初から最後までギャラリーにおります。
2024.07.13 Saturday
週末になりました。今週を振り返ってみれば、今週は木箱作り、陶彫作品の梱包、RECORDの額装といった個展搬入準備に追われた1週間になりました。やはり今回の個展は例年より作品数が多いと実感しました。毎朝目覚めると、あれをしなくてはならない、これもしなくてはならないという焦りが込み上げてきて、なかなか緊迫した1週間を過ごしました。夜は睡魔に襲われる中で、小さく和紙を切って印を押し、そこに日付を記す作業に追われました。翌日にその和紙を陶彫作品の裏側に貼り付けるのです。梱包前に陶彫作品全部にその貼り付け作業をやって木箱に入れました。ずっと搬入準備の焦燥感が付き纏っていましたが、木曜日あたりに陶彫作品を全て木箱に入れ終え、緊張していた身体も心も少しずつ解けてきました。木曜日から金曜日にかけてRECORDの額装に取り掛かりました。RECORDも1年間分の展示となると、自ら製作したパネルが12点にもなり、まずギャラリーに行ったら、このパネルを適度な間隔に置き、パネルの展示を先にやるべきかなぁと思います。金曜日の午後はギャラリーに最終打ち合わせに行きました。銀座も8丁目の角にあった「天國」のビルが解体されていました。銀座も時代とともに街の様子が変わっていきます。古き良き時代の銀座はもうないのかもしれません。また外国人観光客で溢れかえる銀座の中央通りも時代の変遷を映していました。来週から少しの間、私の勤務場所は銀座8丁目になります。夜になってカメラマンが図録1000部を自宅に届けにきました。今日は額装の最終確認と必要な物品を揃えました。例年運搬を頼んでいる業者が作品の下見にやってきました。明日は朝からスタッフとともに搬入作業に入ります。
2024.07.12 Friday
「瀧口修造 沈黙する球体」(岩崎美弥子著 水声社)を読み終えました。瀧口修造と言えば、シュルレアリスムを日本に定着させた美術批評家として、私は初めてその名を知りました。私がまだ学生だった頃で、美術界の潮流の中でシュルレアリスムは抽象をはじめとする多様な表現から派生した運動として認識していました。シュルレアリスムは提唱者アンドレ・ブルトンや画家ダリ、エルンスト、マグリット達より前に、私は瀧口修造によってその概念を学んだのでした。自宅の書棚にはおそらく瀧口修造の書籍が他の詩人や美術批評家の著作よりも多くあると思っています。全集もありますが、「コレクション 瀧口修造」(みすず書房)は第7巻が欠けています。当時私はまとめ買いをせず、一冊ずつ読みながら集めていったので、第7巻がついに手に入らなかったのでした。その頃から私が苦しんでいたのは瀧口修造の詩で、難解なものが多いためにほとんど理解不能に陥っていました。本書はその詩をテーマにした論文集なので、難解な世界を紐解く契機になりました。瀧口修造から生まれる言葉が少なからず造形美術に関係しているのを改めて確認し、もう一度「詩的実験」(思潮社)を捲ってみました。詩も造形美術と同じで、作家が考えたことやイメージしたことを、読者や鑑賞者が明確に理解するのは無理があるのかもしれません。論文集にも多くの洞察や感触が含まれています。それは作品と読者や鑑賞者の橋渡しになる人の思索力でもあるのです。説明や解説を極力排除した詩や造形美術は、あるいはそれでいいのだろうと思うようにしました。事実、私が作っている陶彫作品にも明瞭な説明がつけられない部分があります。目の前に存在する作品は、私が作ったものだけれど、どこからやってきたのか、何を主張しているのか、作者すら明確には答えることができず、何か得体のしれない生命体のような気がします。詩も同じと考えれば、瀧口修造が試みた世界もそれほど遠いものではないような気がしているのです。
2024.07.11 Thursday
「瀧口修造 沈黙する球体」(岩崎美弥子著 水声社)の第7章「《反・書物》の行方」の気になった箇所をピックアップしていきます。本章が最終章になります。「シュルレアリスムが瀧口を育てたのは間違いなく、イマジネーションの豊富さや柔軟さからいっても、瀧口はシュルレアリストの一人に数えたいと思うが、瀧口が抽象やアンフォルメルの画家と引き合い、現代美術の先端に戦後も留まることを可能にしたのは、詩人としての瀧口の本来の資質や言語観も含めた詩的精神風土が、実際どこに向かって開かれていたのかということを深く考えさせるのではないだろうか。」最晩年の著作に関する文章もありました。「『余白に書く』を読み返してみると、死の2,3年前頃(つまりアントニ・タピエスとの仕事を終えた頃)から、瀧口の文章は抽象度が増して、より難解で観念的になってきている。身の回りの現実が少しずつ滑り落ちていき、瀧口は見たいものだけを見て、書きたい言葉だけを書くようになったのだ、という印象を受ける。」瀧口にとって書物とは何だったのか、最後に本章のテーマに触れています。「瀧口は『ノート』から分裂して生まれた『稲妻と徘徊抄』のほかに、『内』にも『外』にも存在しない『本』を現象として想定し、白紙の詩篇を実際に箱にしまうことで、実は目に見えないもう一冊の本を残していたとは考えられないだろうか。『絵も言葉もない本なんて何の役にもたたない』というアリス(不思議の国のアリス)の言葉のなかにある真実とは、この《反・書物》において、自分を飲み込もうとしている結末への反抗が示されているということなのではないだろうか。瀧口は《書物》への反抗を通じて、なおも『来るべきポエジィ』(『ジョアン・ミロ』1936年)を求めようとしていたのである。」今回はここまでにします。
2024.07.10 Wednesday
「瀧口修造 沈黙する球体」(岩崎美弥子著 水声社)の第6章「物質のまなざし」の気になった箇所をピックアップしていきます。「瀧口は美術批評を始めた頃、『詩と絵画を同じ領域にする』という願望を抱いた。デカルコマニーの制作においても、インクの青色の重なりや広がりというマチエールの問題を越えたところに陰影感があり、そこに詩的と言うほかはない世界が展開されている。本職の批評においても独特の詩的な感性は随所に見られ、瀧口の仕事において詩的ということが大変重要であったことがうかがえるのである。」瀧口修造はスペインで画家タピエスと出会います。「壁画はしばしばモニュメントとしてや政治的な性格を持つが、少年期に内戦と言語弾圧を経験して閉ざされた内面を持つタピエスにとって(あるいは瀧口にとっても)、壁は自分自身の反映なのである。そのタピエスとの出会いは、瀧口の創作意欲を触発したと見てよいであろう。タピエスと瀧口の詩画集『物質のまなざし』の完成は1975年であった。それは最初の出会いから約15年という年月を置いたのちのコラボレーションであり、瀧口は晩年を迎え、ミロの影響下にあったタピエスは独自の画風を備えていた。」その詩画集の内容はどんなものであったか、記述の中にこんな文章がありました。「『澄むは/物質のまなざし』と、実は泥で覆われていた壁には空気のような透明な眼があり、その澄んだまなざしが逆に人間を観察しているのである。この表題作には、芸術をはじめとして人間が作り出したものは人間存在を表す隠喩であり、それとの相互の関係から自己を発見していこうとした瀧口の思想が語られている。」ネットで調べると「アントニ・タピエス・イ・プイグ(Antoni Tàpies i Puig、1923年12月13日 – 2012年2月6日)は、スペインの現代芸術家で、シュルレアリスムの画家としてキャリアを始めたが、その後すぐ抽象表現主義に進み、美術用画材ではないものを利用した芸術である『アルテ・ポーヴェラ(Arte Povera)』スタイルで創作活動を行う。」とありました。今回はここまでにします。