Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 7月から8月へ移行した1週間
    週末になりました。今週は7月から8月へ移行した1週間でした。毎日身体に応える暑さが続いていて、空調設備のない工房での作業では、流れる汗が土練り途中の陶土へポタポタ落ちています。シャツは午前と午後で着替え、頭に巻いた手ぬぐいもびっしょりです。これは昔と変わらない制作風景ですが、疲労が昔とは違っているように感じます。夕方、自宅に戻ると暫し動けなくなるのです。以前は教職との二束の草鞋生活でしたが、週末になって終日作業をしていると、自宅のソファで寝落ちしてしまうことがありました。その時も疲労で動けない時間もありましたが、今のように頻繁に休息をとる状況ではなかった気がしています。先月で個展も終わり、今週の生活は元通りのルーティンになりました。火曜日と金曜日は近隣のスポーツ施設に水泳と水中筋トレに出かけています。20年くらい前、私は水泳のマスターズ大会に出場していましたが、今はその気もなく、水泳で自分を追い込むことはしていません。当時憧れていた個人メドレーでのエントリーはもう出来そうにありません。水泳による体力維持が現在の私の目的で、創作活動を可能な限り長く続けるためにスポーツをやっているのです。そのおかげで身体が整う感覚があります。自分を追い込むのは彫刻だけで充分なのです。彫刻は他の創作分野と違って身体を酷使する場面があるためか、年齢を重ねても彫刻家は体力がある人が多いと感じます。また手も頭も使うので、私の師匠もそうですが、年齢の割に若々しく見えるのです。自分もそうありたいと願い、日々精進していく覚悟です。現在は彫刻家一本なので、毎日制作が出来る喜びがあり、酷暑では無理をしない時間帯で作業をしています。可能な限り長く継続すること、これが現在の私が求めている制作姿勢なのです。
    「抽象芸術の本質と性格」について④
    「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅰ 抽象芸術の本質と性格」の前回の続きとして、気になった箇所をピックアップいたします。今まで西洋美術だけだった論考が、ここからイスラム圏に移ります。「イスラム芸術の大勢が~略~明らかに非具象的であったことは事実である。この抽象への好みにはさまざまな原因があるが、そのうち最大のものはこの沙漠の民族の精神性、つまり無限なるもの、形に表わせないもの、再現しえないものに日常親しんでおり、超絶的な概念そのものによってしか神的なものを把握できないというかれらの精神性にある。~略~生命的形態をなにひとつ描いていない芸術が、われわれの眼や精神に異常なほどの生命感を与えるのは、すでにのべた軽さ(形態と材質の)のためであると同時に、この運動感のためなのである。これはまた、純粋な組飾り、すなわち、植物の形態ではなく幾何学的形態によって形づくられた網紐模様のうちに強く感じられる。イスラムのあれこれの地域、あれこれの時代において、どんな形態が支配的になるかは、各民族の特殊性、外国からの影響、各民族の美的、宗教的伝統の相違によって決まる。これは肉感的か知性か、線か量塊か、さらには線や量塊か色彩かといった問題についても同様である。」ここで抽象の2つの在り方について述べた箇所を引用します。「一方では具体的形態から出て、これを抽象的形態に変える抽象化作用、他方では具象的な出発点のないモティーフに対してのみ働きかける純粋な抽象作用の二種である。」改めてこの概念を持ち出したのは純粋な抽象を求めたイスラム芸術に対し、エジプト芸術の具体的形態から発展した造形を論じたかったためかもしれません。「具象的な植物の形態から、この形態に触発されながらもすでに非常にデフォルメされているためほとんど見分けがつかず、なにを原型としているかほとんど判別しがたいような抽象的形態へ移行したことは、知性化、単純化、純粋化を欲するイスラムの想像力に対して、この上なく豊かで多様な可能性の道をきり開いた。」今回はここまでにしますが、本章「抽象芸術の本質と性格」についてはこれで終了です。
    酷暑のまま8月に入る
    今日から8月になりました。気温は相変わらず体温に迫る酷暑が続いていて、今月から新作を実際に作り始めようとしている私は、身体に相当負担がかかるのではないかと危惧しています。工房に長く留まりたい気持ちはあるけれど、疲労を残さないようにするには、どの時間帯でどのくらい滞在するのが効果的なのか、イメージの具現化を進めていく上で考えていきたいと思っています。まず廃材のようになった古木と陶彫作品をどう絡めていくのか、とりあえず陶彫作品を1点作り、古木の隣りに置いてみるところから始めます。同時に平面作品も並行して作ります。新作のイメージはまだ漠然としているため、手を動かしながら考えるようにしたいと思います。来年7月の個展からすれば、今月は一番遠いところなので時間的余裕もあり、かなり自由に発想を羽ばたかせることも可能で、考えを固定しないように努めていきます。それには鑑賞の機会を増やし、自分の創造に対する渇望を満たしていこうと思います。展覧会は調べてみると、いろいろありそうです。首都圏に住んでいることで、見たい展覧会がすぐ見られる得な状況もあるので、有意義に鑑賞機会を採り入れたいと思います。RECORDは通常のRECORDに戻ります。一日1点ずつ制作する平面作品の習慣は崩さずにいこうと思います。今月はお盆休みがあって、教職に就いていた頃は、夏季休暇5日間を有効に生かしていましたが、今となってはそれもなくなり、旅行も混雑する時期をずらすことも可能です。私は学生時代の癖で、長期休暇となれば読書に明け暮れていました。その癖もなくなり、読書は日頃から淡々とやっていて、一気に集中することは過去のことになってしまいました。今月はどのくらい酷暑が続くか分かりませんが、新作の具体的なプランと充実した鑑賞を目標にしていきたいと思います。
    個展が印象的だった7月に…
    7月の最終日になりました。7月は毎年のことだけれど、東京銀座のギャラリーせいほうで私の個展が開催されています。今年も例外なく個展をやりました。7月15日が個展初日だったために、それまでの2週間は陶彫作品の最終制作やら梱包用の木箱作り、RECORD1年間分の額装などがあって、肉体的にも精神的にも多忙を極めていました。朝起きると強迫観念に襲われ、時間が経つのが早く感じられ、自分を追い詰めていました。個展期間中、私はずっとギャラリーせいほうにいて、来廊者の接待をやっていました。今回の個展は壁に掛けられた12枚のRECORD作品が人気で、今まで色彩の乏しかった私の作品世界に彩りを添えていました。こうした結果を受けて新作では立体と平面の双方を使って空間を創り出そうと思っています。個展が閉じた後は、その新作のイメージを考えていて、来年は今まで試したことがない新しい世界観を獲得しようと思っています。今は寝ても覚めても新作のことで頭がいっぱいですが、廃材となった古木と陶彫の組み合わせ、立体と平面の組み合わせ、それが絡み合って「発掘シリーズ」の新しい形態が出来たらいいなぁと思っています。新作を考える上で有効な展覧会や映画があって、忙しい合間を縫って見てきました。展覧会では「アンゼルム・キーファー展」(ファーガス・マカフリー東京)、映画では「アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家」(横浜シネマリン)で、いずれもドイツ人芸術家アンゼルム・キーファーを扱ったもので、崩壊された風景に隠された自己主張と独自の哲学に、私自身も足元を見つめながら自己表現の在り方について考えました。他の展覧会では友人たちの書道展や絵画によるグループ展もありました。映画でも娯楽性の強い「キングダム 大将軍の帰還」(TOHOシネマズららぽーと)にも行ってきました。読書では瀧口修造によるシュルレアリスム関連の書籍から抽象芸術をテーマにした書籍に移り、古い時代に書かれた気骨のある論評に挑んでいるところです。今月は個展が印象的でしたが、酷暑で辛い毎日を過ごしました。来月はどうなるのか、気温に不安を感じるこの頃です。
    「抽象芸術の本質と性格」について➂
    「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅰ 抽象芸術の本質と性格」の前回の続きとして、気になった箇所をピックアップいたします。ここでは宗教に関連した論考が述べられています。「宗教的思惟はしばしば『神的なもの』を『数』のかたちとして把握し、また宇宙の秩序を、数的関係の上に立てられたものとして、あるいは、数学とか幾何学の形で現われるものとして考えたのではないか、ということである。神とはある種の『完全な形式』、『完全な関係』のことであり、自然はこうした『完全な形式』、『完全な関係』をおのれ自身のうちに映す度合に応じて『神的なもの』に近づくのである。こうしてピュタゴラス学派の超絶論が生まれ、プラトンを通じてギリシャ人に影響を与えるとともに、のちにはプロティノスを通じて中世およびルネッサンスのキリスト教思想に影響を与えたのであった。こう見てくれば、当時、人が探し求めた『聖なる比例』なるものもけっして誇張ではなく、人が神に遭遇できるとの期待をもつのは数学の道の上においてなのだ。『聖数』や《黄金比例》に通じた芸術家は、神的存在そのものであれ、世界の神聖な秩序であれ、すべてこうした聖化された『数』や全能な比例に対応する形態によって表現するだろう。~略~純粋に抽象的な芸術は、たとえ知性にのみかかわっている場合であっても、言葉の本来の意味で宗教的でありうるし、さらに建築や幾何学の分野においては、神聖の概念さえ担うことができるのである。これは感覚や感情に訴えて感動を起こさせようとする芸術にあっては不可能なことだ。そしてこれはとりわけ高度に精神的な文明、つまり神の全能と数の全能とがそこでは同じものである宇宙の《数計算》のなかに、神的秩序の概念を読みとる能力をもった文明に関して言えることである。」本書を読んでいると、西洋文明一辺倒で偏りのある論考に、内心穏やかでない自分に気づきますが、後でイスラムやその他の文明についても取り上げているようで、私自身本論をどうのこうの言うのは時期尚早と判断しました。今回はここまでにします。