Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 23’RECORD5ヵ月分をアップ
    日曜日になりました。毎回日曜日には創作活動について述べていますが、今回はホームページにアップした2023年の1月から5月までのRECORDについて書いていきます。ホームページへのアップが1年以上も遅れている理由は、2022年版のRECORDに手間取っていたことが原因です。それはさておき、一日1点制作のRECORDはどんどん先に進んでいますが、ホームページにアップするとなると、私は毎月コトバを添えていて、RECORDとはまた異なる表現を模索しているのです。この自分にとっては慣れないコトバに思わぬ時間がかかってしまうこともアップが遅れている原因とも言えます。私は高校時代から詩が気になっていて、現代文の教科書に掲載されていた日本の現代詩に関心を持ちました。蛙の言葉で世相を語らせている草野心平。ひらがなだけで不思議な世界に私を導いた谷川俊太郎。書店で手に入れた西脇順三郎詩集は、西欧の文明発祥の空間に私を連れていってくれました。私は10代で詩心を理解しましたが、自分で詩を試作しようとしてもうまくいかず、ノートに書き込んだ詩片を何度も添削し、だんだん退屈なコトバになっていくのを残念に思っていました。造形美術ならエスキースを駆使しても、最終決定はすぐやってきます。絵画は上塗りが容易なので、決定が揺らぐこともありましたが、彫刻は手間がかかるので、とりあえずこれでいこうと決めるしかないのです。そこへいくとコトバは意味も含めて、簡単に無に帰すこともでき、いつまでも最終決定がやってこない膠着状態に堕ちこむことがあるのです。あれこれ考えて、こんなものしか私には出来ないのかと逡巡してしまう結果になりかねません。私の教え子で詩を作っている子がいて、私は彼女を羨望の眼差しで見ています。詩は彫刻のイメージと同じトレーニングが必要です。このNOTE(ブログ)とは同じ語彙を使っていてもまるで異なる表現です。普段から詩作が頭にあれば、教え子のようにひょっこり詩が現れるのかもしれません。それを待っていても一向に言葉が現れないのが私なのです。
    週末 日本美術を堪能した1週間
    週末になりました。今週を振り返ると、木曜日に出かけた出光美術館で開催されていた「物、ものを呼ぶ」展が、今も印象深く心に残っています。ここで改めて日本美術の素晴らしさを味わいました。私が注目したのは絵画の余白部分で、何も描かれていないところに、情景が果てしなく広がる空気感を感じ取りました。それは空虚ではなく、まさに空間と呼べるもので、描かれた対象を豊かに包み込んでいました。空間は書にも通じていて、墨で書かれたところと行間という隙間に、なぜかホッとするような気分を持ったのは、平面である書を空間として立体的に捉えた結果だろうと思っています。そう見ていくと、伊藤若冲の「鳥獣花木図屏風」は日本らしい絵画の常識を破った不思議な作品と言えそうです。小さな正方形を一つずつ丹念に塗り分けてモザイク状にして、そこに鳥獣花木を配置した作品は、絵画というよりデザイン性に富んだ名作と言えます。そんな絵画鑑賞を自らの創作活動の糧にしたい私は、今週も朝から夕方まで工房に籠って制作をしていました。おそらく若冲も、私の陶彫に施す彫り込み加飾と同じように、小さな正方形に対し色彩を微妙に変えつつ、退屈に堪えながら作業を進めていたのでしょう。今週は作業に相応しい気温になって、漸く制作に集中できるようになりました。陶彫制作は地道な作業ばかりですが、彫刻は労働の蓄積と考えている私にとって、これは通常の制作風景です。私は週2回の水泳と夜はRECORD制作、読書、それにこのNOTE(ブログ)の書き込みというルーティンが自分の性に合っているらしく、1週間のうちに鑑賞の機会でもあれば、十分に満足できる1週間になるのです。3年前の二束の草鞋生活を思えば、創作活動一本の今が一番充実していると思っています。
    丸の内の「物、ものを呼ぶ」展
    昨日、国立新美術館で開催されていた自由美術展を見た後、丸の内の出光美術館で開催している「物、ものを呼ぶ」展にも足を延ばしました。出光美術館は帝劇ビルの建替えに伴い、一時閉館することが決まっていて、この機会に所蔵作品を展示している「物、ものを呼ぶ」展に行こうと決めていました。ポスターになっている若冲の「鳥獣花木図屏風」や本作とともにジョー・プライス氏が持っていた酒井抱一の「十二カ月花鳥図」が見られるとあって、平日にも関わらずかなり混んでいる状況でした。本展は優れた日本美術の絵画や書が目白押しで、巨匠たちが運筆を巧みに操っていた痕跡、とりわけ墨彩の垂らし込みなどで描いた対象に空間を感じ、何度も私の足が止まりました。平安時代の巻物としては「伴大納言絵巻」の展示がありました。本作は伴大納言こと伴義男による応天門放火事件の顛末を描いていて、慌てる民衆や火事を見守る貴族たちが表情豊かに表現されています。これは美術の教科書や資料集に掲載されている有名な作品ですが、私は炎の描き方に注目していて、パニック漫画のはしりではないかと勝手に解釈しています。それを教職にあった頃に授業で生徒に伝えると、「伴大納言絵巻」はよく覚えてくれました。さらに出口付近で人だかりがしていた作品がありました。江戸時代に描かれた「江戸名所図屏風」で、江戸(東京)の名所旧跡が細かく描かれ、しかも屏風の下には場所が記してありました。よくぞ描いたと思われる2000人以上の民衆が画面を埋め尽くす様子は、当時の都市の賑わいを表していて圧巻でした。出光美術館は書のコレクションも有名で、数々の名品が展示されていました。民間の美術館でこれだけのコレクションがあるのは素晴らしいと感じました。美術館がリニューアルを終えたら、また来たいと思っています。
    池田宗弘作「悪魔シリーズ」雑感
    昨日、工房で窯入れをしたので、今日は電気の関係で工房での作業は出来ませんでした。その機会を利用して朝から家内と東京の美術館に出かけました。彫刻の師匠が会員となっている自由美術展は六本木の国立新美術館で開催されていて、招待状が師匠から送られてきていました。師匠の池田宗弘先生は昔から真鍮直付けという特殊な方法で、量感のない彫刻を作り続けていて、複数から成る人物が物語の一場面を演じているのが特徴です。今回出品されていた作品も集合彫刻になっていました。タイトルは「悪魔は聖人を彫る彫刻家に貧乏神を送り付ける」という長文であり、そのタイトルが全てを物語っていました。キリスト教に纏わる聖人像を作り続けてから、先生の中では聖人の対極にある悪魔が登場し、そのシリーズとしては10年近くが経っているのではないでしょうか。私が学生の頃は、先生はまだ洗礼を受けていなかったので、生活の貧しさを謳歌する人々の模様を、風景の一部として彫刻化していました。先生はジャコメッティのような細い人体を作っていますが、ジャコメッティのようにデッサンに主眼が置かれているわけではなく、人物や動物の骨格丸出しの細い構造体で、そこに内包される空間を作っていると私は解釈しています。空間を大きく取ることで、軽やかなスケッチのような効果が表れるのです。しかも風刺の効いたテーマをやっていて、フランスの画家オノレ・ドーミエの風刺画を立体化したような雰囲気があって、当時学生だった私は一気に魅了されたのでした。その後、先生はスペインに出かけていき、キリスト教のテーマに辿り着いたようです。修道院を模したアトリエを長野県に作り、大学も退職された頃に奥様に先立たれ、現在は住居兼アトリエ「エルミタ」で一人で制作をされています。私は80代半ばに差し掛かった先生の健康を心配していますが、今回の自由美術展に出品された作品を見たら、ちょっと安心しました。私も夏にギャラリーせいほうに先生が来られると恐縮してしまい、酷暑の中で長野県からわざわざ来られた先生をどう労ったらよいのか、嬉しさと心配が交互にやってきて右往左往してしまいます。池田先生には末永く創作活動に従事してほしいと心から願っております。
    「抽象絵画の主流 」について⑧
    「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅴ 抽象絵画の主流 」の文中に出てくる多くの芸術家を今回は2人取り上げます。アメリカ現代美術の礎を築いたジャクソン・ポロックとヴィレム・デ・クーニングです。まずポロック。「ポロックは、慣習的な形式を拒絶し、新しい素材を自由にえらび、熱狂的な気質をなまなましく爆発させることによって、《タシスム》が非合理と主観の最高頂に達したあの大きなドラマティックな画布を描いた。しかしながら、注意してみると、ポロックはそのタブローに自分自身の激情をおしつけることをみずから禁じ、そこにかれのいう《タブロー固有の生命》を残すことのほうを好んでいる。かれがきびしく要求するものは、芸術家と芸術作品との完全な調和であり、画家の創造的な意志と、あの絵画の神秘な別の意志とのあいだの完璧な均衡である。」次にデ・クーニング。「デ・クーニングにあっては、アンフォルメルなものは、自然主義的な具象形態を漸次分解していった末に現われるもののようである。かれは、この分解のために、抽象の技術をかりる前に、キュビスムと表現主義の技術を利用した。デ・クーニングは、ポロックとトビーとともに、まさしくアメリカの行動芸術の指導者のひとりとみなされている。その作品には、熱狂的な否定と拒絶を裏切るような予期しがたい豊満や荒々しい渦巻がどよめいている。」新しい芸術の潮流がパリからニューヨークに移ったと感じていた当時の人々は、アメリカに新たな芸術的活路を見いだしたようで、そこに商業的な成功を夢見ていたと、私は思っています。それは伝統の枠を壊す芸術運動には格好の場所で、また新しい芸術的価値を付加した新天地でもあったのでしょう。今回はここまでにします。