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  • 理想としての詩画集の在り方
    「瀧口修造 沈黙する球体」(岩崎美弥子著 水声社)の第5章「ジョアン・ミロの詩情」を読んでいて、瀧口修造自身の言葉に目が留まりました。「ぼくは超現実主義を通して、詩と絵画とが握手するだろうということを、さらに確信している。ぼくはこの一文を、純粋詩という世界から、純粋絵画という遠い世界にあてて郵便はがきのように書いたのではない。われわれは同じ領域にいるという自覚への期待として書いたのである。(『超現実主義絵画の方向について』1935年)」詩画集という媒体に私は学生の頃から魅力を感じつつ、ひとつの見解を持つに至っています。それは詩はどうであれ絵画の解説ではないし、絵画は詩の挿絵ではないというものです。詩にせよ、絵画にせよ、表現分野が異なるので、それぞれのどちらかが隷属関係になるのは在り得ないことだからです。たとえば掲載されたコトバが説明的であったり、イラストのような絵が添えられている書籍に、私は詩画集としての魅力を感じることが出来ません。詩と絵画は同じ領域にいると瀧口修造は言っていますが、それはそれで素晴らしい概念で、双方の分野が相まって表現が深まることが理想的と私も考えています。テーマが統一されていたり、同じ方向を向いて創作された詩や絵画は、内容を豊かにするうえで、異なるアプローチで追求することが理想的と言えます。今まで詩と絵画の関係を書いてきていますが、これは詩とオブジェでも映像でも同じです。異なる分野での表現を並立させることで、それぞれが刺激し合い、時に対峙し、ひとまわり大きな世界を描き出し、また深い思索に辿り着ければ、見事なコラボレーションと言わざるを得ません。そういう意味で画家ジョアン・ミロと詩人瀧口修造が発行した詩画集は、それまでに例のない偉業だったのではないかと私は思っています。
    「ジョアン・ミロの詩情」について
    「瀧口修造 沈黙する球体」(岩崎美弥子著 水声社)の第5章「ジョアン・ミロの詩情」の気になった箇所をピックアップしていきます。「『詩の直接な形成力』という表現は、詩と絵画の領域をひとつのこととして考えたいとする瀧口の、詩に対する認識を知るうえでも重要なのではあるまいか。瀧口にとっての『詩』とは、究極において『形をもたぬもの』(『アララットの船あるいは空の蜜へ小さな透視の日々』1972年)であるのだから、文学の世界だけでなく、絵画やオブジェ、映像のなかにも滑り込むことができるものと言えるのではないだろうか」そこでスペインの画家ジョアン・ミロとの関わりになってくるのです。「瀧口は単純でミニマムな俳句的表現を好み、絵画や夢の世界に超現実的な詩情を探す。しかし、その一方では自分に向かって照りつける太陽の激しさや、無秩序で奔放、放埓でもありうる強い精神を求めていたのであり、その点において瀧口が共感を抱くことのできた画家はミロしかいなかったのである。」私は若い頃に、瀧口修造とミロとの詩画集を見つけ、そのコラボレーションに憧れを抱きました。ミロが来日した際にも瀧口が案内していたのをテレビ報道で見た記憶があります。詩人と画家との精神的な繋がりが、作品世界を一層深淵なものとし、また同時に開放感あふれるものにしていると私は感じています。20代の頃、私はウィーンに落ち着く前に、スペインのバルセロナを旅して、そこの丘の上に建つミロ美術館で、絵画だけでなく陶器や織物、さらにそれらを配置した空間にも感銘を受けた記憶があります。ミロが何気なく描く線や面は、素朴な子どものようであり、でも日本の前衛的な書のような自由と抑揚を持ち、詩情を湛えています。晩年になって、こんな世界が創れたらいいなぁと羨望を抱きながらミロの作品を鑑賞しています。瀧口修造の詩の断片を思い出しながら…。
    週末 自家用車の車検
    日曜日になりました。週末は創作活動について書いていますが、今は個展のための準備期間になっていて、陶彫作品の梱包作業に入っているため、創作活動は休んでいます。今日は朝から工房に籠って作業をやっていましたが、自家用車の車検があったので、愛車ビュートを日産の販売店に預けに行きました。ビュートのメーカーは光岡自動車ですが、ベースカーが日産マーチなので、私は自宅近くにある日産の販売店に持っていきます。定期点検の際、タイヤの消耗が目立っていて、度々販売店の担当からタイヤの溝を示す資料をいただいていました。今回は車検と合わせてタイヤ交換をお願いしました。来週の個展の搬入や搬出には車を使います。スタッフたちを東京銀座のギャラリーに連れて行くためですが、車を万全に整えておく必要があると思っています。その他でも和楽器を携えた家内を最寄りの駅に送ったり、生活必需品の買い物に車を使ったりして、私は車をほとんど毎日運転しています。我が家は鉄道の駅から離れた場所にあり、しかも小高い丘の上にあるため、坂道をバスの停留所まで歩いても10分程度かかります。家内のように胡弓や三味線を持ってバスに乗るのはなかなか大変です。私もちょっとした木材等を運ぶのに車は便利なのです。そうしたことで車を手放すことが現在は出来ませんが、加齢を考えていつかは運転免許を返納し、車を手放す時がくるだろうと思っています。高齢者の事故が多く報道されていて、自分だけは大丈夫という過信が、とんでもない事故に繋がる可能性があるからです。私は所有する車を自らの造形感覚で選んでいて、メカニックに関するものにはあまり関心がありません。ビュートの前には米国クライスラー社のPTクルーザーに乗っていました。私はレトロなデザインが好きで、洒落たスタイルを自分の贅沢として捉えています。いつまで車を楽しむことが出来るのか、水泳等の運動を続けながら、少しでも知力体力を維持していきたいと願っているところです。
    週末 作品梱包と印象的な展覧会
    週末になりました。今週を振り返ってみたいと思います。今週は目の前に迫ったギャラリーせいほうでの個展に向けた準備期間となっていました。陶彫作品はその保護のために毎年木箱を用意しています。その木箱も私は自分で作ります。木箱は陶彫立方体が8点ずつ収まる大きさにすることで、大人2人が運搬の際に運べる重量と耐久性を考えています。今回は作品が多く、木箱を20箱以上も作るため板材や補強のための垂木材も予め多めに用意してきました。これは創作活動とは違い、単純な作業ですが、運搬や保管に関して重要な作業になるので、ほぼ毎日をこの作業に費やしています。私の陶彫作品はどれも和紙に印を押して裏側に貼っています。これはサインの代わりになるもので、今回の作品も6月1日以降の作品に貼っています。5月までの作品は昨年展示発表をしているので、既に裏側に印が貼ってあるのです。今週は陶彫作品の梱包と併行して、RECORDの額装もやっていました。これも昨年は5ヵ月分を額装しているので、それに倣って残り7ヶ月分の額装を進めています。今週はさらに多忙な合間を見つけて、ドイツ人芸術家アンゼルム・キーファーの展覧会にも足を運びました。美術鑑賞をした翌日から、木箱作りのような単純な作業でも意欲を持って楽しくなるのが自分でも不思議です。ドイツには若い頃、オーストリアに住居を移す前に数カ月間滞在したことがあるので思い入れがあります。現代ドイツを代表する芸術家にはキーファーの他にゲルハルト・リヒターがいて、リヒターもナチスが行ったホロコーストを制作動機に据えていて、ドイツ人芸術家にとっては壮絶な過去から逃れられない宿命があるのだろうと思います。このところ工房にいると汗が滴ってきて、シャツを何枚か替えています。昨夏を思い出すような気候ですが、今年は早い時期から酷暑に見舞われています。自宅に帰るとエアコンがあってホッとします。今年も暑い夏がやってくるのかと思うと憂鬱になります。
    青山の「アンゼルム・キーファー展」
    昨日は東京都港区北青山にあるファーガス・マカフリー東京で開催されていた「アンゼルム・キーファー展」に行ってきました。ファーガス・マカフリー東京を私は初めて訪ねました。そこは2部屋の手ごろな空間があったので、美術館と言うよりギャラリーとして、現代アートを扱っている場所なのかぁと思いました。現代ドイツを代表する芸術家アンゼルム・キーファーは79歳になり、その制作現場を撮影した「アンゼルム”傷ついた世界”の芸術家」が現在映画館で公開されているようなので、近いうちに観に行こうと思っています。監督は「ベルリン天使の詩」や「パーフェクトデイズ」を作ったヴィム・ヴェンダースで、私の好きな映画監督です。アンゼルム・キーファーの作品を、嘗て私は箱根にある彫刻の森美術館の大きな室内を使って展示されていたのを見ています。ナチス・ドイツによる崩壊した社会体制、そして瓦礫と化した街に生まれたキーファーは、経歴によるとヨーゼフ・ボイスに師事しており、インスタレーションが物語る崩れた風景と生々しい物質感は師匠の影響かもしれないと思いました。本展では立体作品や平面作品を合わせて20点ほど展示されていて、立体作品は全てガラスケースに収まっていました。ガラスケースを通して見る風景は、コンパクトになっているとは言え、その主張するところは衝撃的で、かなりインパクトがありました。罅割れた大地、枯れて風化した植物群、無造作に積まれたレンガ、薄手の衣類が上から吊るされていたところは日常性が垣間見えて、具現化された終末の世界を描いているように感じました。戦後のドイツ復興とともに心から消し去ることが出来ない第二次世界大戦の反省と罪悪感、何がキーファーをここまで突き動かしているのか、時代の移り変わりでリセットされて、人々が次第に忘れかけていく惨劇を、象徴性をもって私たちに突きつける作品は、世界が不穏な動きを見せている現代だからこそ、私たちが考えていく必要を感じていくべきだろうと思いました。