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  • 新聞記事より「若冲と応挙 互いを意識?」
    今日の朝日新聞の文化欄に、私が嬉しくなるような記事がありました。冒頭の文章を紹介します。「ともに江戸時代中期の京都画壇を代表する絵師、伊藤若冲(1716~1800)と円山応挙(1733~1795)が合作した屏風が新たに見つかった。2人の合作は類例がない。」若冲と応挙の展覧会となれば、私は必ず出かけていき、それぞれ画風の異なる超絶技巧の作品を別の場面で堪能してきました。発見された屏風は専門家の鑑定により真作と判断されたようです。同時代に生きた絵師2人は「平安人物志」(1782年版)のランクでは応挙が1位、若冲が2位とあったようですが、お互いのことをどの程度分かっていたのでしょうか。「自由奔放に描いて現代にブームを引き起こした若冲と、写実を重視して円山派を創始した応挙。京都で同時代を生きた2人だが、直接の交流を示す資料はほとんどない。」実際の屏風についての文章です。「若冲は左隻に竹と鶴を描き、応挙は右隻に梅と鯉を描いた。落款の位置は左右対称で、紙の継ぎ目も左右でつながるという。」若冲研究の第一人者辻惟雄氏がこんな感想を述べています。「『なかなか面白い作品が出てきた。お互いが自立性を確保しながらも、お互いに合わせてもいる』と述べ、『ナンバー2の若冲は負けるものかと描いたのではないか。鶏は羽が踊っていて、若冲の鶏で屈指の作品だ』と興奮気味に話した。」(引用文は全て西田健作著)伊藤若冲と円山応挙とは私にとって絶妙な取り合わせで、江戸時代の絵画の面白さを私に齎せてくれた2大巨匠なのです。勿論、辻惟雄氏が著した「奇想の系譜」があればこそ、こうした絵画の面白さが伝わったのですが、今では西洋絵画の写実や象徴主義にも見劣りのしない我が国の文化的誇りとも言えます。否、彼らの鋭利な線描は西洋の人々をも魅了する画力があると私は考えています。この屏風は是非とも見たいものですが、近々大阪中之島美術館で公開されるそうです。これは将来、関東にも巡回してやってくるのでしょうか。
    「抽象絵画の主流 」について⑦
    「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅴ 抽象絵画の主流 」の文中に出てくる多くの芸術家を今回は2人取り上げます。昨日NOTE(ブログ)にアンフォルメル芸術について書きましたが、まさにその潮流を作った2人です。まずヴォルス。「ヴォルスは、稀有の能力と異論の余地のない才能を持った画家だったが、無意識の衝動に身をまかせたかれには、あの偉大な浪漫派のノヴァーリスがたてた戒律ー芸術家は詩の発想においては完全に無意識だが、詩作においてはまったく意識的である、という戒律は記憶から消えていた。かれは絵画に、いわばシュルレアリストの用いた自動記述の方法をとり入れ、紙の上に投げられた線が偶然に動き、偶然にぶつかり合うままに描いた。現代の混乱や絶望のドラマティックな感情から出発したアンフォルメル芸術は、おそらくあらゆる領域で、ますますフォルムが失われてゆく世界のなかで、なお芸術的な形態をつくるということには、なにか間違いがあると考えているにちがいない。アンフォルメル芸術は、絵画において、原子核のエネルギーの専門家の実験で起された爆発と同じものだ。この科学の一部門が、制限も制御も、おそらくは予期も予測すらもできない力を動かすのと同じように、アンフォルメル絵画の道も、実験に実験をかさねてフォルムを確立するのではなく、もっとも純粋なできるかぎり自動的な方法で、激情の噴出を表現するにいたるだろう。」次にマチュー。「かれ(マチュー)の本領は、一種の歴史の投影に発揮されたのである。個人の宿命をのりこえ、マチューがアンフォルメルのなかでいかに逆説的に見えようとも、それが創作したものは、アンフォルメルなものによる歴史画であった。かれにあっては、創造的な本能が純粋にほとばしると、そこから過去のドラマをよみがえらせる。一種の能力が生まれてくる。自分のなかに中世の激情がよみがえるのに気がつく。その激情におされて、かれは具象的な画家がいたずらに生命を与えようと努めて失敗したものを、巨大な抽象的なコンポジションに表現したのである。群集の猛烈な動き、民衆とイデオロギーと王の野心とが衝突する葛藤。歴史画が、選ばれた主題を真実に表現する能力はたいていの場合薄弱なものであり、それも普通は、小道具や衣裳や武器や《時代もの》の家具を総動員しなくては表現できないのにたいして、アンフォルメル芸術は、激情的な瞬間だけをとらえ、絵の具を強烈にす早くほとばしるように塗り重ね、滴らして、その瞬間を画布の上に投影するのである。」今回はここまでにします。
    週末 アンフォルメル芸術について
    日曜日になりました。日曜日は創作活動について書いていきますが、今回は自作に関するものではなく、現代美術の潮流のひとつであったアンフォルメル芸術について述べたいと考えています。現在時間をかけて読んでいる「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅴ 抽象絵画の主流 」の文中にドイツの画家ヴォルスが登場してきたことで、嘗て私自身が刺激を受けた夭折の芸術家の作品に暫し囚われてしまいました。ただし、ヴォルスの作品が自作に影響を及ぼしたことはないのですが、その世界観に私自身心理が抉られた体験があり、その芸術家を知った日から私は資料を調べ始めたのでした。ヴォルスは私が学生時代に購入した「見えない彫刻」(飯田善國著 小沢書店)に登場した画家で、その後2017年に千葉にあるDIC川村記念美術館で展覧会が開催され、その時にじっくりヴォルスの世界観を堪能したのでした。「見えない彫刻」にはこんな文章があります。「50年代の世界を風靡したアンフォルメルの出発点はヴォルスだったが誰一人ヴォルスを超えることはできなかった。」さて、アンフォルメルとはどんな芸術か、ネットによれば「アンフォルメルとは、仏語で『非定形』を意味している。もともと非定形である生命感の緊張といったものを、目で見ただけでも分かるような画肌の感触(マティエール)や、現実には存在しないような形体によってつくられる空間構成によって表出しようと試みる芸術がアンフォルメル芸術と呼ばれる。」とありました。この潮流がヨーロッパから日本にやってきた頃に私は生まれたので、日本での盛り上がりは先輩世代の方々から聞いたことでしか語れませんが、従来の芸術の在り方の枠を壊したことで、現在のような多様な芸術表現が生まれたことは事実だろうと思っています。芸術表現は自らの心の吐露や考えを伝えるもので、そこに決まりはありません。今まで縛られてきた決まりを壊したことがアンフォルメルなのだと私は考えています。
    週末 9月から10月へ移行した1週間
    週末になりました。今週を振り返ってみたいと思います。今週は9月から10月へ移行した1週間でした。暑さが多少変わってきて、凌ぎ易い気温になりました。新作の制作に拍車をかけたいところですが、気温の変化が身体に与える影響なのか、陶彫作業は思ったように進みません。窯入れを行ないましたが、その窯入れ準備にも骨が折れる始末でした。季節の変わり目は例年こんなものかなぁと思っています。今週は水曜日に家内と映画館に足を運びました。低予算で話題になっている映画「侍タイムストッパー」は、大変面白い内容でした。映画館のある複合施設で外食をしましたが、こういう機会も気分転換になるなぁと思いました。自宅と工房の行き来でも自分は満足を覚えていますが、美術館なり映画館に行けばさらにホッとできるのがよいと感じています。創作活動をしていると1週間が経つのが本当に早いと思っていて、自分では特に意識したことはありませんが、創作活動は心が満たされている分、時間が経つのが早く感じられるのでしょう。今日はいつも週末になると現れる後輩の彫刻家と、彼と同世代の教職に就いている教え子が工房にやってきました。以前彼女は油絵を描いていて、その作品を工房で預かっていたので、それを受け取りに来たのでした。昔話に楽しい時間が過ぎていきましたが、学校の現状にも話が及び、私も教職にいた頃に気持ちが戻されてしまいました。今の私は好きな創作活動を好きなだけやっていて、自分以外のことで力を尽くすこともなくなりました。でも教職にいた頃は、自分のことはひとまず置いておいて、生徒のため学校のために朝から晩まで心を砕いていました。自分の人生の中でそんな社会貢献があったことを、今となっては誇りにも感じますが、当時は右往左往していて大変な時間を過ごした記憶が残っています。過去を振り返るのもたまにはいいと思えるのは、自分がある程度やり切れたと感じているからで、今の自分がこうしてやっていられるのは、過去の仕事に精神的に支えられているのかもしれません。
    新聞記事より「情報など必要としていない」
    昨日の朝日新聞「折々のことば」より、記事内容を取り上げます。「私たちは本当のところは、情報など必要としていないのではないでしょうか。椹木野衣」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「情報検索で見つけた評判のいい店を訪ねるのは、費用対効果はあっても、経験としてはむしろ貧しい。文章の場合も、情報入手や渡航がうんと不便な時代に書かれたもののほうが『味わいがあり、得るものも多い』と美術批評家は言う。生活の雑事や記憶など『失われた時間や場所を想像力によって取り戻』せる場所につねに身を置いていたいと。『感性は感動しない』から。」新聞記事が昨日のNOTE(ブログ)から続いているのは、今日の内容が昨日の内容と関連していると私が感じたからでした。バーチャルでどこへでも行くことができ、情報は即座に入ってくる世界に生きている私たちは、物事が全て分かっているように勘違いをしていると私は思っています。昨日の芸術家李禹煥氏の言葉に「これからのアートは、経験、プロセス、時間を奪わない、人間として体験できることに立ち返った表現を考えること」という箇所があります。バーチャルで疑似体験しても記憶に残らないことが多く、寧ろその場に出かけて、自分の全身全霊で物事を味わうことの方が、心に刻まれるという体験を私は繰り返してきました。今でも私は頻繁に展覧会に出かけるのもそのためです。20代で渡航し、地中海沿岸に広がる都市遺跡を深く心に貯蓄して、それを今もテーマに作品化しているのはその証拠です。不便な思いをしてやっと辿り着いた境地、それが「発掘シリーズ」に結集しました。誤解がないように言えば、私はAIによる情報を否定する者ではありません。便利なものはどんどん活用すればいいと思っていますが、AIによる情報に左右されることがないようにしたいと思っているのです。情報過多になって心に迷いが生じるのであれば、本当に心に響くものは何か、もう一度立ち止まって整理したいと私は考えています。