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  • 週末 梱包用木箱をいつから作るか?
    日曜日になり、6月も中旬に差し掛かっています。そろそろ梱包用木箱を作ろうかと考えています。素材が陶彫であるがために破損が心配であり、おまけに陶彫立方体を複数配置して展示することもあって、作品の運搬には気を使います。昨年から2年越しのテーマをもつ作品なので、昨年の梱包用木箱と同じものを用意すればよいと考えます。梱包用木箱は2人で持ち上げるのに適した大きさにして、さらに重量も考慮して、ひとつの箱に8点の陶彫立方体が入るようにしています。図録用の写真撮影の際に昨年の木箱を開けて、昨年作った1月分から5月分までの陶彫立方体を出しました。ひとつずつエアキャップに丁寧に包んであって、搬出時の短い時間の中でもスタッフたちのきちんとした仕事ぶりが伺えました。今年はその倍以上の梱包が必要なので、搬出時は大変になることが予想されます。先日は撮影が終わった後で、元の木箱に戻しましたが、家内と美大生がきちんと包み直してくれました。さて、今年分の梱包用木箱をいつから作るか?今日の夕方は木箱製作に必要な垂木等を買いに出かけました。板材も垂木もクギもまだまだ不足していますが、木箱の出来具合を見て追加購入をしてこようと思います。因みに梱包用木箱が創作活動ではないので退屈な作業ですが、こればかりはやらなければならない大切な作業でもあります。梱包用木箱は自分流に作っていた私を見かねて、美術品の運搬業者が箱の作り方を教えてくれました。補強として垂木を加えて、丈夫なものになりました。昨年この時期に作っていた梱包用木箱の作り方を思い出しながら、来週には作り始めようと思います。
    週末 図録制作&長寿画家展に行った1週間
    週末になりました。今週の振り返りを行ないます。日曜日は雨が心配されましたが、何とか晴れの合間をぬって図録用の写真撮影を行いました。今回は陶彫立方体の作品数が多かったので、手伝ってくれたスタッフたちに感謝いたします。撮影時間も長かったのですが、多様な視点から撮影場面を設定して、自分の思うようにさせていただきました。私としては図録を毎回全力投球で作成していますが、今回は疲労度が高く、その分満足いくような図録が出来てくれることを切望しております。撮影日から2日間おいて火曜日の夜に2人のカメラマンが多くの撮影画像を持って我が家にやってきました。画像選びは毎年やっているので慣れたものですが、例年との違いを出そうと私は懸命に考えました。個展案内状と図録の表紙は、工房の黒壁に陶彫立方体を積み上げて、独特な景観を作ろうと考え、本作品の在り方のひとつとして、私は捉えています。普段作っているアナログと、撮影されたデジタルが揃ってくると、愈々個展が近づいてきたなぁと私は実感するのです。さて、制作のことはひとまず置いて、木曜日には東京都新宿区の初台にある東京オペラシティアートギャラリーに行ってきました。そこで開催されていた「宇野亜喜良展」は平日にも関わらず、大変混雑していました。私も含めて年齢の高い鑑賞者が多く、その人たちの外見で言えばデザイン業界や演劇業界の人も多くいたのではないかと察しました。私の若い頃は、宇野ワールドと言えばアングラ劇やらエロス漂う映像表現に通じる世界観があって、およそ一般的とは言えない癖の強いものでしたが、その過激性に世間が追いついてきたと感じたひと時でした。そんなこともあって、今週は刺激的な1週間だったと振り返っています。
    新聞記事より「海を買いたい」
    今日の朝日新聞「折々のことば」より、記事内容を取り上げます。「わたしはただではいやなのです。わたしは海をお金で『買いたい』のです。寺山修司」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「詩人・演劇家の詩・物語集『さみしいときは青青青青青青青』から。ある娼婦が老いて少しのお金も貯まり、海を買いに行きたいと思う。むろん叶うはずもなく、『わたしはこんなに買われてきたのに、どうして海ぐらい買うことができないのだろうか』と嘆く。海の水が人々の涙の集積だとしたら、自分の涙がどこかへ紛れ込む前に海を買っておかねばならないと思ったか。」私は学生時代に寺山修司の詩、戯曲、随筆などを読み耽り、彼が主催していた演劇実験室「天井桟敷」もよく観に行っていました。その頃の「天井桟敷館」は渋谷駅近くの街道沿いにあって、奇抜な装飾を纏った建物が異様に目立っていました。今日の新聞記事が目に留まったのも、昨日訪れた東京オペラシティアートギャラリーで開催していた「宇野亜喜良展」に関連があったからです。というのも寺山作品のポスターや装丁、挿絵などを宇野亜喜良氏が数多く手がけていて、ヴィジュアルな点からも寺山作品が理解できて、私にとっては20代の頃を思い出す契機になっていました。寺山ワールドは、北方の土着性があり、超現実的な世界観があるという感想を私は持っています。寺山修司が青森県の出身であり、寒く暗い情緒が漂う詩や和歌が、青春真っただ中の私のノスタルジーを誘っていたこともありました。演劇の世界では新しいことを試していて、哀しい情緒と革新的な理論の絡みが、何とも当時の私にとっては魅力的でした。涙の集積が海になったという発想も寺山ワールドらしくて、私は忘れていたものを思い出した感覚があります。ニーチェの言うディオニソス的なものが満載していた世界に溺れそうになった私は、大学に行けば彫刻を作っており、そこにはディオニソス的なものに対峙するアポロン的なものがあり、微妙なバランスを保っていたのではないかと振り返っています。彫刻を作り続けている私が、寺山ワールドに惹かれるのはそうしたバランスのせいかもしれません。
    定番になった陶彫焼成中の美術館散策
    昨日、乾燥した陶彫作品に仕上げと化粧掛けを施し、夕方に窯入れを行ないました。窯入れをすると窯以外のブレーカーを落とし、電気を使えなくしているために工房での作業は一旦中止します。窯入れ、つまり焼成はそれが陶彫作品である以上、重要な制作工程で、避けては通れないものです。焼成を成功させるために土練りや成形、彫り込み加飾を慎重に行っていると言っても過言ではありません。他の素材に比べて、そこが陶彫の面白いところであり、また難しいところでもあるのです。工房が使えないとなれば、私は目ぼしい展覧会を探して美術館に出かけていくのが定番になっています。私にとって実技と鑑賞は車の両輪のようなものなので、展覧会での刺激は自分自身の感覚や思索を高める上で大変有効なのです。今日の午後から家内を誘って、東京オペラシティアートギャラリーで開催している「宇野亜喜良展」に出かけていきました。東京オペラシティアートギャラリーは新宿区初台にあり、何回か訪れたことのある美術館です。平日だというのに、展覧会場は混雑していました。NHK日曜美術館で取り上げられたことも影響しているのか、図録も既に売り切れていてスマホによる予約注文をしてきました。イラストレーターでグラフィックデザイナーでもある宇野亜喜良氏は90歳の今も制作を続けています。宇野ワールドについての感想は別稿に譲りますが、私は自分の学生時代から、業界で活躍を続けている宇野亜喜良氏を折に触れて見てきました。とりわけ私が学生時代によく出かけたアンダーグラウンド演劇(アングラ劇)に、彼はポスター等で関わりを持ち、そのエロティシズムの香る作風に、私では絶対に真似ができない世界観に、不思議と惹かれていました。自分とは真逆にあるからこそ惹かれることを私は受けとめざるを得ませんでした。展覧会を見て回るうちに、私は当時流行ったアングラ劇を懐かしんでしまい、ショップで「劇場のグラフィズム」(笹目浩之著 グラフィック社)を思わず購入してしまいました。その過激で土着性のある世界はどこにいってしまったのか、あれも現代風俗の一側面であったはずです。「宇野亜喜良展」についての詳しい感想は後日改めます。
    「シュルレアリスムの動向」について
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「シュルレアリスムの動向」について、気に留めた箇所をピックアップいたします。「シュルレアリスムは文学を形成しようとする手段の組織体ではない。シュルレアリスムの範囲は実験科学的領域の価値をもつものであり、もしこの領域が他日、進化したあかつきに、なにものかに衝突するとすれば、それはひとつの文化に対してであろう。そしてシュルレアリストにとってこの文化は唯物論的科学を対象としている点で、対立するものがプロレタリア文学ではないことは明らかである。」これはシュルレアリスムが文学という狭い領域に留まらない運動であることを訴えたものです。「シュルレアリスムは最初において、夢と理知との矛盾に対して激しい注意を喚起した。彼らが、夢を託したり、夢の心的活動を自動筆記において再現しようと企図したのは、いうまでもなく夢をもって、一種のユートピア的雰囲気をもって、現実を糊塗するためではなかった。それを実験に移すのに、彼らはつねに表象を借りなければならなかった。この表象は、永遠という返却期日の記入された借用証書でもあるのだ。そして唯物論的転向をした後のシュルレアリストは、夢の、無意識の問題を、けっして捨てたのではない。むしろ、そこにシュルレアリスムの発展の、もっとも重要な鍵があるのではなかろうか。」フロイトとの関連にも考察が及んでいました。「フロイトにおける、抑圧作用の原則は、人間の最大な秘密の鍵でなくてはならない。精神の流れは、つねに個体の中心を破って、宇宙的なひとつの意識に合流しようとする。この意識の方向は、その表現を、夢に、あるいは正常な人間では圧迫されているひとつの傾向の、怪奇な組織化にほかならぬ或る心的疾病に求めようとするものである。シュルレアリスムが、ヒステリーや狂気に重要な啓示の源泉を求めようとするのは当然である。」今回はここまでにします。