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  • 「瀧口修造 沈黙する球体」を読み始める
    先日「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)を読み終わって、私はまだ瀧口ワールドに浸りたくなっていたため、「瀧口修造 沈黙する球体」(岩崎美弥子著 水声社)を読み始めました。本書はどこかの美術館のギャラリーショップで購入した覚えがありますが、いつ頃どこだったのかは忘れてしまいました。我が家の書棚には瀧口修造の詩作やら翻訳された書籍が数々ありますが、時を置いて瀧口ワールドが頭をもたげてくる癖が私にはあります。私はシュルレアリスムを瀧口修造を通して知ったので、その思想に再三触れてみたくなるのです。序章にこんな文章がありました。「瀧口の冒険は、言葉とイメージとの間に、その両者が混じり合うことが不可能な『不可浸透のメカニズム』が働いているからこそ始まったのである。だが、それは言葉でいうほど簡単なことではなかった。瀧口の精神的な苦しみはさらに続き、一時は『すべて失った』(『地上の星』1932年)とさえ思ったのである。そのような瀧口が美術に触れることで取り戻したものは、脳裏に浮かぶイメージを目に見える形にして、カンバスの上やオブジェに再現しようとする、なにがあっても不可能を可能にするのだというような表現者特有の気概や執念であったに違いない。」序章の最後の文章に本書「沈黙する球体」というタイトルに関するものがありました。「『唇はなぜ唇の形をしているの』と子供のような質問をし、答えも聞かずに沈黙するこの究極的でミニマムな球体は、瀧口のなかのやっかいなもう一人の自分でもあろう。しかし、これはイメージの怪物だということを忘れてはいけないのである。イメージがひとを混乱に導く名前のない怪物であるなら、それに魅せられ、そのものに向かって『では、あなたを何と呼ぼう?』とつい考えてしまうことは、あくまで人間くさい行為だと言えるのではないだろうか。」瀧口ワールドが美術作品に及ぼす影響は計り知れないものがあると私は考えています。本書は瀧口修造論であり、私も自分の事として本書を読み解いていこうと思っています。
    郵送されてきた「宇野亜喜良展」図録
    東京での展覧会は先日終って、次は愛知県の刈谷美術館へ巡回する「宇野亜喜良展」ですが、ギャラリーショップで予約した図録が自宅に郵送されてきました。長い創作生活を物語る立派な図録で、宇野亜喜良氏の多様な分野での活躍が見て取れます。とりわけ描かれた痩せ細った女性たちの、その妖艶な瞳はどこに向けられているのか、線描が魅惑的な作品が数多くありました。図録の文章からまずイラストレーターとしての出発点を探ってみたいと思います。「15歳の宇野が描いた《自画像》は今回の展覧会のなかで最も古い時期の作品だが、高校1年生にしてすでに十分な画力を備えていたことをうかがわせる。現在にいたるまで多彩なイラストレーションを生みだす根底には、少年時代に培った基礎的な画力があったといえるだろう。」次に少女を描いた初期の頃を扱った文章です。「装幀や挿絵を数多く手がけ、1冊目となる『寺山修司抒情シリーズ』の『ひとりぼっちのあなたに』(1965年)から『少女』という存在を意識的にとらえるようになる。すらりとした肢体の少女たちは、つぶらなまなざしをもち独特でアンニュイな雰囲気を漂わせている。」そして仕事に対する姿勢が書かれていました。「仕事の依頼から造形が始まるという宇野亜喜良。なんでも描ける画力がありながらも画家ではなく、イラストレーターとしての発注が来てから自己に内在するものを明らかにしていくスタンスを貫いている。50年代から活躍し始め、移り変わる時代のなかで制作を続けてきた宇野は、『今のイラストレーションには、何か強烈に時代をひきずる思想とか風俗がないですね。社会現象化してないってことなんでしょう。逆説的な言い方になるけれど、だから現代という時代は面白い、何でもありの時代』と述べており、このような時代のとらえ方であるがゆえに、宇野の制作姿勢は揺るぎない。~略~宇野は70年を超える創作活動を通じて、表現の引き出しを増やしながら、平面に留まらず、立体を含めたイラストレーションを、インパクトのあるビジュアルに転換(ポスター)し、連続した動画(アニメーション)にし、空間的に展開(演劇)し、観客との相互関係(展覧会)を築き、そして、他者とのコラボレーションにより思わぬ方向へと作品を高次化させてきた。」(引用は全て松本育子著)宇野氏は時代の語り部でありながら、時代を牽引した寵児でもあったと私は思っています。
    新聞記事より「ロックが基準」
    昨日の朝日新聞「折々のことば」より、記事内容を取り上げます。「見た人全員が『泣けた!』としか言わないようなものを、そもそも表現としてやる必要があるのか。松重豊」この言葉に著者の鷲田精一氏がコメントを寄せています。「ロックか、ロックでないか。恥ずかしながらこれを、仕事を択ぶ基準にしていると俳優は言う。心身ともに贅肉を削ぎ落していること、それが自分の考えるロック。世界の趨勢に対し、その不可解さから眼を逸らさず、これってなんかおかしくない?と言い続けることだと。本紙6月8日朝刊でのインタビュー『ロックじゃねぇ!』から。」俳優松重豊氏は人気テレビ番組「孤独のグルメ」で主人公を演じ、一人でレストランに入り、食事を堪能するのを、視聴者は時に面白く、時に癒されながら見ています。私もその一人で、心身ともに贅肉を削ぎ落している自然な演技に見入ってしまいます。本人が言うロックとは、ロック・ミュージックから派生した広範囲な意味を指すようで、何となく感覚的な響きがあります。人が何かを表現するのは多面的で多角的であり、その豊かな側面があると同時に、求めていく先はシンプルです。それは雑然とした外野が発する声の不可解さに蓋をすることではなく、自分の信じる方向に向かって突き進んでいくことだと私は考えます。少なくても私はそうしたいと主張することが松重流ロックなのだろうと思います。松重氏は音楽が好きなようで、私がよく聴いているロッカー甲本ヒロトとはバイト仲間だったとどこかの番組で言っていました。成程、松重氏はああいう音楽が好きなのかと思いつつ、今晩も私はRECORDを食卓で作りながら、ザ・ブルーハーツの甲本ヒロトの絞り出すような歌声を聴いています。その歌の詞にも不可解さから眼を逸らさず、これってなんかおかしくない?と言い続けていることが示されています。ロックを基準にしているのはそういうことかなぁと思っています。
    週末 廃材を使う新作
    日曜日になりました。週末は創作活動について書くことにしています。そろそろ来年に向けた新作のことが気になっています。来年発表予定の彫刻作品は 廃材を使おうと思っています。2022年2月7日のNOTE(ブログ)にこんな文章がありました。「実家の外見は立派な旧家の造りですが、いざ住むとなるとかなり手を入れなければならず、費用も嵩むので、結局私の代でそこに賃貸の集合住宅を建てることにしました。旧家では2本の大黒柱を私が頂くことになっています。それを工房に運んでもらうつもりです。今日から実家の解体工事が始まりました。」実家がいつごろ建てられたものか分かりませんが、昨年大黒柱が解体業者によって工房に運ばれてきて、今も倉庫に立てかけられています。今までも鉄道の枕木を作品の一部に使用したことはありますが、それはテーブル彫刻を構成するものとして利用しました。これは初めに全体イメージありきで利用したもので、枕木は制作途中で見つけてきたのでした。私はまず何よりも新作のイメージを優先します。どの素材を使うかはその次の段階ですが、今回は廃材ありきで考えているので、いつものようにイメージが降って湧くこともなく、さてどうしようかと思案しているところです。最初に古い歴史を纏った廃材があって、それを何とかしようとするのは、私にしてみれば初めてのことです。まず廃材をじっと見つめることから始めようと思っています。自己表現では陶彫は絶対的な位置にあるので、廃材と陶彫の絡みをどうするのか、生涯のテーマである発掘場面をどのように考えるか、実際の発掘現場では木材は朽ちてしまって、形を残しません。廃材を木材ではなく、別の何かに喩えてみるのも良いかもしれません。何しろ新しい空間演出へのチャレンジであることに間違いはありません。
    週末 音響が心に刺さった戦争映画
    週末になりました。今週は個展の図録用写真撮影が終わっても追加制作が必要なために、工房での制作は日々続いていました。同時に梱包用木箱も作り始めました。まだ焼成も必要で、水曜日には窯入れも行いました。木曜日は窯が稼働していたため、工房での作業が出来ず、その時間を利用して家内と映画鑑賞に出かけました。観た映画は「関心領域」でポーランドが中心になって制作された戦争映画です。第二次世界大戦のポーランドにあったアウシュヴィッツ強制収容所。その壁ひとつ挟んだ隣で生活するドイツ人一家。戦時中は収容所の煙突から炎が上がり、騒音も聞こえていました。親衛隊中佐一家は穏やかな生活を送り、収容所がなければ理想的な暮らしぶりに見えましたが、ずっと鳴り響く騒音が嫌でも耳に入ってくるのです。映画を観ている私たちも、その騒音が何であるか分かっていて、映画全編を貫く音響にこの映画の本領があるのではないかと思いました。ホロコーストの場面は一切描かれず、一家がお茶を飲んでお喋りをしたり、庭の草刈りをする場面でもずっと僅かな騒音が生活全般を覆っているのです。これはまさに音響効果の賜物で、私たちを恐怖の奈落に落とし入れる演出です。私は映画や演劇に伴う音響に注目しました。音響もひとつの表現ですが、音楽のような独立したものではなく、音響があることによってドラマに抑揚をつけ、時には衝撃を与えます。造形作品を照らす照明効果と似ていますが、映画「関心領域」の音響は劇伴効果ではなく、残虐行為を暗示する役割があり、親衛隊中佐一家の穏やかな雰囲気とはまるで異なる世界を突き付けているのです。私たち観客は、その音響があるために落ち着かない状況をずっと耐え忍ぶことになるのです。戦争映画としてこれほど陰惨な映画が嘗てあったでしょうか。音響が心に刺さった戦争映画。今週はこのインパクトが印象的な1週間でした。