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  • 「抽象絵画の主流 」について⑤
    「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン著 瀧口修造・大岡信・東野芳明 訳 紀伊國屋書店)の「Ⅴ 抽象絵画の主流 」の文中に出てくる多くの芸術家を毎回3人づつ取り上げて、NOTE(ブログ)に書いています。私自身の知識を肥やすために、ほとんど内容が引用文になっていることをお許しください。今回はゲール・ヴァン・ヴェルデ、ヴュリアミイ、ハンス・ホフマンの3人を取り上げます。「ゲール・ヴァン・ヴェルデがわれわれを誘い入れる世界は非物質化されたものではない。繊細で流動的な絵画の実体に還元された素材や、やわらかい、調子を殺したトーンの、きわめて微細な彩色から、対象に、つねに自然主義的に結びついているよりも、はるかに確実に、柔軟に、生命が、生命の流出がもたらされるのだ。タブローが、《魂の状態》であるといえるならば、ゲール・ヴァン・ヴェルデのタブローが誘いこむ雰囲気は、このうえなく精神的である。それは第一に、かれのタブローからは、精神の完全な平和が、宋代の中国の風景画に満ちているのと同じような調和した力強い静謐さが、溢れているからだ。」次にヴュリアミイ。「ヴュリアミイの芸術は、かつて大洋州民族の芸術と結びつけられたことがある。後者が抽象にもたらした莫大な貢献をはっきりさせなくてはなるまい。樹皮布、キプカプ、透し彫のカヌーの舳、ティキの像(これは、抽象的な図式を人間化し翻訳したものを、もう一度抽象化したものだ)、マオリ族の入墨、彫られたカヌーの擢や鎚矛ーあるときは具象的であり、あるときは正しくいって抽象的であるこの芸術、えらばれた形はなんであれ、摩訶不思議な存在の持つ目に見えぬ力にとり憑かれているこの芸術のすべてが、大部分は大文明の人間たちであり、ヨーロッパの芸術あるいは異国芸術のあらゆる形態を完全に習得している抽象画家たちの発想を、とてつもなく豊かにしてきた。」最後にハンス・ホフマン。「はるか今世紀初頭にさかのぼる、ドイツ分離派の運動から出たハンス・ホフマンの作品においては、爆発し炸裂した、モニュマンタルな形態の構図のなかに、キュビスムと表現主義との原理が結合している。それが合衆国のアクション・アートに与えた影響は、なみなみならぬものであった。マサチューセッツの美術学校で教鞭をとり、アメリカ人となったハンス・ホフマンは、ヨーロッパとはまったく違った次元を持つこの国から、壮大なもの、壁画的なものに対する情熱を身につけた。」今回はここまでにします。
    週末 風景彫刻という考え方
    週末の日曜日は毎回創作活動についてNOTE(ブログ)を書いています。先週NOTE(ブログ)にアップした「創作する空間の範囲」と同じ考え方ですが、切り口を替えて今回は「風景彫刻という考え方」で自作について述べさせていただきます。風景彫刻とは単体ではなく、集合体で風景を構成していく彫刻表現のことで、私の身近では師匠の池田宗弘先生が風景彫刻を作っています。池田先生は具象作家なので、複数の人物や猫などの動物が集う広場を、真鍮直付けによる技法で作っていて、私の中に池田先生の考え方が根付いているのです。それは私が大学で彫刻を学び始めた頃に遡り、大規模な展覧会に出品されていた池田先生の作品を初めて見て衝撃を受けたことに始まります。私は海外生活を経て作品が抽象化していき、さらに日本に引き上げる際に旅したギリシャ・トルコの遺跡から現在の「発掘シリーズ」に結集していきました。まさに風景として発掘現場を象徴化していくことは、振り返ってみれば当然の成り行きだったのかもしれません。そこには先週NOTE(ブログ)にアップした内容である亡父が生業にしていた造園業の影響もあります。ある範囲を決めて、そこに風景を創出していくことが私の彫刻の真骨頂で、陶彫部品を使って空間をイメージすることを、私は初期の頃から一貫してやってきました。この姿勢を崩すことはまずないと思っています。NOTE(ブログ)のアーカイブに次のような文章がありました。2021年10月3日付です。「私は大地に石材や木材で立ち上げたものをプラスの空間造形、洞窟や地下壕はマイナスの空間造形と位置づけていて、大地を座標軸にした空間の在り方を示すものです。それが芸術かというと、芸術の意識が芽生えたのは近代になってからのことなので、人類の長い歴史の中で、芸術品としての認識は最近のことと言わねばなりません。私は現代に生きる人間として、芸術行為としての空間を造形しています。私が思考するのは、古代遺跡の発掘現場にいるような架空の空間認識による彫刻で、出土され、空気に触れている部分がプラスの空間造形で、大地に埋蔵されている部分はマイナスの空間造形です。」これが「発掘シリーズ」の原点で、私なりの風景彫刻の考え方と言えます。
    週末 箱根にドライブした1週間
    週末になりました。今週を振り返ってみたいと思います。9月の中旬だというのに、真夏と同じ体温に迫る気温が続いている毎日です。空調設備のない工房での作業は、相変わらず厳しいものがありました。とりわけ新作第1号の窯入れをした日は、窯周辺には熱を帯びた空気が充満していて、近づくことも出来ませんでした。窯を焚いている最中は、工房での作業を休んで、家内と箱根にドライブをしてきました。箱根も久しぶりだったのですが、東名高速の海老名サービスエリアも久しぶりで、定番のメロンパンを買いました。箱根の彫刻の森美術館では室内展示だけ見てきて、高温多湿の中を野外彫刻を見て回る勇気がありませんでした。ラリック美術館は混雑もなく、ゆったりと見て回れました。「ラリック×ダンス」という企画展をやっていましたが、ここは常設展示されているラリックの工芸品の数々が素晴らしく、見応えがありました。ずっと工房に籠っていると、ドライブのような気分転換が必要だなぁと思います。週末もなく制作三昧の毎日なので、来週も出来るならどこかで気分転換をしたいと思います。さて、今日は後輩の彫刻家が朝からやってきていて、先日まで展示していた二科展の木彫作品を工房に運び込んできました。私も昔から懇意にしているカメラマン2名が彼の作品を撮影するため、工房にやってきました。今日は昨日よりも涼しく風もあったので、野外撮影には絶好の日でした。私がそうしているためか、彼も撮影にはプロのカメラマンを使います。自分の視点ではなく、他者の視点を入れることで、作品世界が広がることを彼も理解しているようで、アナログとデジタル双方のアプローチによって、自らの世界観を形作っていると言えます。また、家内は朝から和装になり、胡弓をもって埼玉県川越市に行きました。私は最寄りの駅まで家内を車で送りましたが、夕方から「越中おわら夏の踊り」というのがあるようです。多少涼しくなったと言えども湿気が多く、この季節のイベントは大変だなぁと思いました。
    久しぶりに箱根ラリック美術館散策
    先日、家内を誘って箱根にドライブに行ってきました。彫刻の森美術館の次に向かったのは箱根ラリック美術館で、私は本当に久しぶりだったため、美術館の外見しか覚えていない有様でした。家内はアクセサリーを作っていることもあって、叔母とラリック美術館に来ていて、今回もフランスの近現代工芸を代表するルネ・ラリックの緻密な作品を堪能していました。私は20代の頃の滞欧中にラリックを知りました。当時、分厚い高価なラリック作品集を咄嗟に購入してしまい、経済的に困窮してしまったのを今も思い出します。私はラリックに2つの特徴を見ていて、ひとつは彫刻性、もうひとつは日本の伝統様式を取り込んだデザイン性でした。ギャラリーショップで当館のコレクションに関する書籍を手に入れて、その箇所を引用いたします。「ガラスの彫塑性にはやくから着目したラリックの卓見については、しばしば指摘されることだが、ロダンが発見した、空間の流動性、アール・ヌーヴォーを先駆するその新しい世界観を、ラリックもぴったりと伴走しながら追い求めている。」(新見隆著)ラリックの工芸品に彫塑的なボリュームを感じるのは、彫刻家ロダンの影響があったのかと、私は納得しました。もうひとつの日本の伝統様式に関する文章を引用いたします。「水の意匠化に卓越した尾形光琳は、水の多様な表現をとらえ、生涯、その造形を追及した人物である。柔らかい線で描かれた水には、不思議な生命感すら漂う。平面上で水紋が波動してみえる、鮮烈な印象だ。~略~ラリックも、水のデザインに取り組んだ。水のしぶきを観察することで生まれたネックレス《飛沫》は宝石細工に属するが、水の抽象化に優れた、現代にも通じるモダンなデザインでもある。水は波紋を広げ曲線を描くが、静寂さも失わない。ラリック作品に、横たわっている空気感がそれである。しんと冷えきった冬の空気。蜂は霞の中に、バッタは朝靄の中にいる。」(神成幸子著)当時のアール・ヌーヴォーの作家たちはラリックに限らず、日本の美術に影響を受けていたようで、日本人が創作した意匠を私は誇らしく思っています。
    箱根の「舟越桂 森へ行く日」展
    昨日、箱根にある彫刻の森美術館で開催中の「舟越桂 森へ行く日」展を見てきました。木彫家・素描家である舟越桂氏は今年3月29日に72歳で逝去されました。本展はその前から企画されたものなので遺作展としての意味合いはないように思いました。会場に入るとアトリエが再現された場所がありました。楠を手彫りしていた作家の周囲には、道具の他にメモ書きや走り書きしたデッサンがあり、生々しさと言うより、何か懐かしさが漂う雰囲気に満たされていました。展示されている彫刻作品や素描作品は、舟越ワールドの最たるもので、展覧会がある度に出かけている私にとっては旧知のスタイルでした。私は初期の頃の瀟洒な具象的作品が好きで、そのモデルとなった男性が、私が受験の時に通っていた予備校に勤めていた人だったので、ひょっとすると桂氏も同じ予備校に通っていた可能性もあるなぁと思っていました。本展にはその作品は展示されていませんでしたが、具象作品が次第に心象的になっていく過程をじっくり見つめることが出来ました。図録よりその箇所を書いた文章を拾います。「過剰な男性原理の優位が戦争という災厄を引き起こしている。むしろ、優しく包み込むような女性原理こそが、怒りを鎮め、戦争を終結に向かわせる。そうした救済の可能性を両性具有のスフィンクスに仮託したのではないか。」(塩田純一著)現代に生きる私たちは、一般社会との繋がりも意識せざるを得なくなるので、キナ臭い世界情勢を見ると、作家も作品を通して何か発信したいと願うのは当然の成り行きかもしれません。「舟越保武さんの人間像は写実的であり、思いや祈りのような感覚が通底していたが、舟越桂さんのそれは心象的であり、人間の本質を露わにしようと様々な実験が試みられたと言える。本展では、『人間とは何か』という普遍的な主題を舟越さんがどのように表現してきたかということを示そうと、作品を選定し、構成した。舟越さんの作品は遠いまなざしが特徴的であるが、それは翻って、見る人に自己を顧みるよう促すメッセージのようにも感じられる。」(黒河内卓郎著)舟越ワールドに対する私の好き嫌いはともかく、晩年の超現実的な両性具有の人物像は、人間の本質を捉えようと試みた作品であるのは間違いなさそうで、その先の展開が見たくても本人がいなくなってしまった今となっては、謎に包まれた世界になったとも言えます。