2015.06.02 Tuesday
6月2日は横浜の開港記念日です。今日は勤務を要する日ですが、休みをもらって美術館に行くことにしました。連日混雑が報道されている「鳥獣戯画展」は、ウィークディならば多少余裕を持って鑑賞できるかなぁと思っていましたが、これは大きな間違いでした。朝10時に家内と上野の東京国立博物館平成館に到着しましたが、既に入場まで80分待ち、さらに入場した後「鳥獣戯画」を見るまでに160分待ちという表示がありました。東京国立博物館で今まで人気のあった展覧会を数多く見てきましたが、今日ほど混雑している展覧会は初めてでした。それでも修復の終わった「鳥獣戯画」は面白く、本物を見に来た甲斐があったと思いました。詳しい感想は後日にします。東京国立博物館を出た後、東京都美術館に向かいました。画家の友人が「新象展」の会員で、今回も大きな抽象絵画を出品しているので見てきました。相変わらず補色を使った非具象絵画で迫力がありましたが、例年と違うのは明快な幾何学的パターンが、新作は茫漠として面と面の境界線が消えつつあることです。作家の内部で何か変化があったのかもしれません。それはいずれ本人に確認したいと思っています。今日はさらに予定を組んでいましたが、「鳥獣戯画展」に時間がかかったため、今日はこの2つの展覧会で帰途につきました。
2015.06.01 Monday
6月になりました。今年の7月の個展の準備で言えば、まだ「発掘~群塔~」の撮影が終わっていないことが上げられます。今月の7日(日曜日)が撮影日になります。7日に向けて細かな修整作業をしています。今回の図録完成は個展直前の7月になります。撮影日が例年より遅くなっていることで、撮影後の梱包作業が厳しくなることが予想されます。今月は夏の個展に向けて頑張らなくてはならない1ヶ月になりそうです。見たい展覧会や映画もあります。週末に制作ばかりしていると疲労が溜まり、精神が病んでくるので、鑑賞を入れてリフレッシュするつもりです。RECORDは相変わらず厳しい中で一日1点制作を続けていますが、夜の工房通いがあって時間的な遣り繰りが大変です。眠気に襲われながらRECORDの下書きをするのは日常のことなので慣れてきたとは言え、創造活動の身体的限界を感じているこの頃です。読書は通勤時間帯にマイペースでやっています。6月にやるべきことを並べ立てると、なかなか厳しいスケジュールですが、充実した創作生活をしたいと願うばかりです。
2015.05.31 Sunday
今日は5月最後の日でした。今月はゴールデンウィークに「発掘~丘陵~」が完成し、案内状の撮影を「発掘~丘陵~」を使って行いました。追って「陶紋」が完成し、カメラマンに野外撮影をお願いしました。「発掘~群塔~」は今日でほぼ完成で、番号を付けた印を厚板と陶彫の両方に貼りました。陶彫部品によってはまだ修整が必要ですが、それはまた今週のウィークディの夜に毎晩工房に通ってやっていきます。そういう意味では今月は相次いで作品が完成し、一応の成果を上げました。まだ5月と言うのに真夏のような気温が続き、毎晩通う工房で、忽ち汗が流れてシャツがびっしょりになりました。今日も印を貼るだけの作業なのに額から汗が滴り落ちていました。作品を床置きにしているので、印を貼るために立ったり座ったりして、まるでスクワットを繰り返している状態になり、脚がヨレヨレになるまで疲れてしまいました。夕方になって、若いスタッフが来月大きな展覧会に出品することに決まったので、作品の額装を手伝いました。先週は塗装作業を彼女に手伝ってもらったので、今回は私が手伝いました。持ちつ持たれつの関係がいいなぁと思っているのです。今月のことを言えば、美術館等にはよく出かけました。京都国立博物館、京都国立近代美術館、東京のBunkamuraザ・ミュージアム、東京都庭園美術館に行って、刺激的な展覧会を見て来ました。その他では海老名文化会館に出かけ、家内の胡弓による「おわら」同好会の演奏を聴いてきました。若いスタッフと横浜動物園ズーラシアにも行ってきました。作品制作に追われている時間を掻い潜って、よくもいろいろなところに出かけたものだと思っています。RECORDは反省すべきことが多いのですが、読書は相変わらず哲学に絡めたドイツロマン派の美術評論を読んでいます。まずまず充実した1ヶ月だったと思っています。
2015.05.30 Saturday
今日は午前中に職場に隣接する施設に用事があって出かけてきました。週末に仕事が入るのは立場上仕方ないことです。今日は真夏のような暑さで、そろそろ熱中症を心配しなければならない季節かなぁと思っていました。午後は工房に行きました。油絵の具の臭いが充満して、息苦しい空間になっていました。早速窓を開け、外気を通しました。先週は7点の屏風を床に置いて、工房に出入りしているスタッフたちが下塗りとドリッピングをやってくれました。スタッフと言っても全員が創作活動を展開する若きアーティストで、彼女たちがバランスを見ながら塗装した画面はとても美しい効果を齎せています。その後、ウィークディの夜に自分一人で工房に通って、ドリッピングした画面の上から油絵の具を霧吹き状に撒いて、画面を落ち着けました。この度合いが難しく、また楽しい瞬間でもあります。あまり霧吹きをしてしまうと、美しい斑点が消えてしまう可能性があるからです。その兼ね合いが大切で、どこまでやって完成とするか、判断に迷うところです。この作業に長時間は禁物です。1時間程度作業したら翌晩にまわし、再び全体を確認していく方法を取りました。毎晩通ううちに完成が見えてきました。今日はその画面に陶彫部品を全部配置して、さらに陶彫の色合いと油絵の具の色合いを確認することにしました。これもあまり同化させてしまうと陶彫による造形が目立たなくなる可能性があって、どこまでやって完成とするか、繰り返し判断に迷うところです。明日もう一度確認することにしました。それを決めてから陶彫部品に番号をつけた印を貼ります。いよいよ完成が近づきました。
2015.05.29 Friday
表題にある「非ー自我としての無意識」というのは、近代的な自我や内面の成立のことを言います。現在読んでいる「風景の無意識 C・Dフリードリッヒ論」(小林敏明著 作品社)はフリードリッヒに代表されるロマンティック絵画が、当時の時代背景や近代の物質的・思想的発展から生じた人の内面に向けられた眼に対し、それが絵画を評論する上で欠かせない要素になっていることを論じています。文中のコトバを借りれば「いわゆる『内省』とか『反省』と呼ばれるものが自然観察の対現象のようにして生じてくる。ただし、これにはひとつの条件がなければならない。それは離れる『社会や人間関係』がすでに自然と明確なコントラストをなすほどに発展していなければならないということである。鄙びた農漁村のように、人間関係やその生活形態がいまだ自然と密接に関わりを保持しているところでは、たとえ豊かな自然を前にしても、そこに『孤立』が生じる余地がないからである。言い換えれば、こうした自然を前にしての孤立が可能となるのは、その逆に社会や人間関係がすでに自然から乖離した都市化をこうむっていなければならないということである。その原因は言うまでもなく産業資本主義の発達である。」というのは、「非ー自我としての無意識」を自然の中で感じ取るのは、近代都市として発展してきた社会構造が成熟するにつれ、人が内面に向かうことが出来るというものです。そこから崇高という概念が生まれたり、芸術を取り巻く思索が生まれる契機になったことを知りました。