2015.06.27 Saturday
漸く週末になりました。朝いつものように工房に行きましたが、1週間の疲労が残っていて、なかなか作業が手につかず、今日は梱包材の追加購入をするために店に向かいました。梅雨でジメジメした日が続いています。ひとつ清清しい気分になったのは、工房周辺の草刈が全て終わって、工房周辺の植木畑が美しく整理されて見えたことです。近隣に住む親戚に例年依頼して草刈をしてもらっていますが、いつの間にか草刈が出来ていて驚きました。気分は良かったのに、疲労はそのままで何をやるのにも身体が動かず緩慢になり、仕事への意欲が出ない有様でした。個展搬入用の梱包は、あと少しで完成です。そのゴールがあるために緊張が解れているのかもしれません。ちょうど昼ごろ自宅に客人があって、暫し工房を離れました。母が管理している賃貸住宅に関する業者たちで、自分が母の代行を行っています。今日はそんなことでゆっくり過ごしました。追加の梱包材を買ってきたので、明日は最後の梱包を頑張りたいと思います。
2015.06.26 Friday
東京国立新美術館で久しぶりに見たマグリットの世界、現在読んでいるフロイトの「夢解釈」、どうしても今月はシュルレアリスムに導かれている1ヶ月と言えそうです。このNOTE(ブログ)に幾度も登場したシュルレアリスムですが、繰り返し自分の中に存在を示す美術界の潮流に、自分は頭のどこかで今も囚われているのかもしれません。アンドレ・ブルトンの著作も数多く読みました。シュルレアリスムの定義なるものは、よく知っているにも関わらず、その代表作を見ていると不思議に心が高揚し、新鮮な気持ちになるのは何故でしょう。シュルレアリスムの潮流を纏った作品は、自分の中では古典です。その古めかしさが今となっては新鮮なのかもしれません。発表当時は物議を醸し出したマグリットやダリは、寧ろ自分に心の平安を与えてくれる作品です。まだ当時は平面や立体といった領域を抜け出ていなかった表現に安心を得るのかもしれません。
2015.06.25 Thursday
画家鴨居玲の画業を知ったのはいつの頃だろうと思いを巡らせています。自分の学生時代か、社会人になってからか、記憶は定かではないのですが、強烈な印象が残って、鴨居作品が展示される度に見に出かけています。同じ作品を何度も違う空間で見ていて、それでも飽きない不思議さがあります。鴨居の人物の描き方が、学生時代好きだったドイツの版画家K・コルヴィッツに似ていることが鴨居世界に自分を導いた要因だろうと述懐しています。図録の経歴によると安井賞を受賞したのが、1969年(昭和44年)で、その頃私は中学生だったので、鴨居玲の画業を知るすべもなく、大学に入って漸く画業を知ったのかもしれません。鴨居玲が急逝した1985年に、私は5年間の滞欧生活にピリオドを打って帰国の途についたばかりだったのでした。今回展示された油彩のうち、やはり心を留めたのは安井賞に輝いた「静止した刻」とその前後の作品に深い精神性を感じました。「Bar」や「蛾と老人」「サイコロ」等に豊かな詩情を感じさせ、またそこに展開するドラマを想起させているように思います。バタ臭く郷愁の滲んだ画風は、日本人の感性としては独特で希有な存在ではないかと思っています。東京駅ステーションギャラリーは古い煉瓦壁に囲まれた空間で、その中にあって鴨居ワールドがよく調和していて、異国の匂いが漂う非日常空間を作っていました。
2015.06.24 Wednesday
今年の個展の図録は作品完成の遅れにより、大幅に例年の予定より遅くなり、今晩やっと色校正が出来上がってきました。これで10冊目の図録になります。自然光で撮影された画像の陰影が美しいと感じました。今年の作品は奥行きがあって、工房で撮影された作品の空間に厚みが出ています。自分の作品は都市をテーマにしたパノラマのような世界観があるので、撮影によっては大変面白いものが出来上がってきます。部分を撮影した画像は、作品の表面を舐めるような視点に風景を感じ取って、それが永遠に広がる錯覚を起こさせます。動きのあるカメラワークならではの効果ではないかと思っています。ユニークな視点はデジタルの強みです。アナログは全体を見てしまうので、構成要素に囚われてしまう嫌いがあります。色校正としてカメラマンに示された画像には、今回は自然光と、画像に多少なり加工を加えたものがあって、その差異が楽しいと感じました。紙にプリントアウトされたものでは、ややシャープさが失われてしまうので、実際の図録がどのくらいの程度で完成してくるのか、推し測りながら待っていようと思います。
2015.06.23 Tuesday
今読んでいる「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)は睡眠中に見る夢を学術的に研究するもので、夢の内容に何らかの要因が考えられるとするフロイトの見解を著した書籍です。夢には当然個人差があって、自分はあまり夢を見ません。あるいは夢を見ていても起床とともに忘れてしまっているのかもしれません。たまに夢の内容を覚えている時に、朝になって夢の情景を辿ると、荒唐無稽な筋書きであったり、登場人物の関係が曖昧だったり、人に説明するのもままならない破天荒なものだったりして、不思議な気分にさせられます。自分には強迫観念がどこかにあって、何かに追われている姿や、空中を浮揚している姿があったりします。既に他界した人が普通に登場して、自分と会話する場面もあります。夢は脳内に蓄積された記憶の断片が突如現れてくるのでしょうか。美術評論家だった故瀧口修造氏は寝床の近くにノートを置いて、見た夢の記述を試みたとどこかで書いていました。シュルレアリスムの作家たちは、夢を主題にして奇妙な世界を具現化しています。シュルレアリスムにとって理屈が通らない夢の世界は、まさに主題そのものだったに違いありません。「夢解釈」の冒頭部分に、夢における記憶を記した箇所があって、興味のあるところを引用します。「夢の記憶には、日中の体験のなかで、些末で、それゆえまた注目されなかったことを好むという奇妙な傾向がある。そのため、夢が日中の生活に依存していることがまったく見落とされたり、また少なくとも、個々の場合すべてにそうした依存があるという立証をするのは困難にならざるをえない。」その日の覚醒した意識の中で強い印象を受けたものより、寧ろ他愛のない些細なものの方が、夢に登場してくる場合が多いと本書は書いています。ここからまさに夢の解釈が始まるのです。