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  • 週末 焼成&上段作成の1週間
    週末になりました。土曜日はその週の振り返りを行ないます。今週の制作状況を言えば、新作の焼成が出来上がっている陶彫作品が3点あり、今日4点目の窯出しをしました。まさに焼成の1週間でしたが、作品が窯に入っている焼成時は、いつものように工房が使えず、地元の市立中学校で開催された学校運営協議会に出席してきました。久しぶりに教育現場に触れましたが、自分が現役の時と違い、新鮮な空気を感じました。しかも今年から横浜市は1年生が35人学級になっているのを目の当たりに見てきました。しかも生徒の手元には一人1台の端末があり、時代とともに教育環境が恵まれつつあるのを実感しました。創作活動に戻れば、今週は6点の塔で構成される陶彫作品の一番上段になる部品について考えていました。上段は先端が細くなる塔になり、当初のイメージ通りにするにはどうしたらよいのか、下段や中段のようにタタラと紐作りの併用技法だと、細すぎて内側に手が入らない状態になり、これは作り方を変えていく必要があると思いました。そこで上段の原型を粘土で作り、石膏で型取りをし、その雌型を使って成形をやっていこうと決めました。型を使って成形をやったことは過去に何度もありました。確か前に購入した切金や焼石膏があったはずだと思い立ち、棚を探したところ、かなりの量の未使用の焼石膏が見つかりました。それほど湿気も含んでいないので、これはまだ使えそうだと思い、早速先日より原型制作に入りました。久しぶりの石膏型取りで、昔のことを思い出しながら作業を進めました。石膏型取りに関しては別稿を起こしてもよいかなぁと思います。読書に関しては今週から「綺想の美術廻廊  種村季弘・異端断片集」を読み始めました。私の創作世界の真逆にあるエロチシズムや情念を主題にしていて、私としては実は大いに関心のある世界なのです。幻想に遊ぶことで、生命力を謳うことを目的として、今後は大切に読んでいきたいと思います。
    「吸血鬼」について
    「綺想の美術廻廊  種村季弘・異端断片集」(斎藤靖朗監修 芸術新聞社)の「吸血鬼」について、気に留めた箇所を取り上げます。本章では図録に添えた短文を、さらに選択して羅列してあります。「吸血鬼は、寄辺ない近代人のヴェールを剝がれた不安な素顔そのもの、その被投企の実相の神話的形象への投影にほかならない。」「吸血鬼は死と生との世界に同時に住み、両界を自在に往還するすべを心得た二重存在なのである。」「市民社会化が進み、とりわけそれぞれの世紀末の衰退した雰囲気のなかですべてのものが沼のように無気力に澱みすえた魔の時刻に、吸血鬼は跳梁しはじめるのである。」「吸血鬼はむろん女の吸血鬼も、それぞれがそれぞれにとって異形である男女の怪物性のひたすらエロチックな意味に即して深められ拡大された畸型学的誇張である。」「アニマには二つの顔がある。死と地下世界に通じる冥府的破壊的側面と、天上的宥和的側面である。そもそもがひとつの全一性を形作っていたものが二つに割れたのだから、その一方にあこがれれば、もう一つの側もその影として姿をあらわさないわけにはいかない。」「ドイツ語では現在でも売春を意味する動詞hurenは同時に『偶像を礼拝する』の意味である。時間という黒い汚染源に清らかな額を洗われて、聖性はしだいに卑賎へと失墜してきたのだ。」「悪魔は教会芸術と神学的文献のなかで形成された、その論争的な、大衆説得用のあざといこけおどしめいた形姿を、戦術的にかなぐり捨てただけかもしれないのだ。」「血は永生の霊液であり、吸血鬼信仰は不老長寿精力増強の妙薬たるこの血の呪術的効能に基づいている。」「生の本能たるエロスは、いうまでもなく生体維持、進歩、場の確保を目的とし、タナトスの破壊し、消滅させ、退化させる力に対立する。」「誘惑し凌辱する死の襲撃にたいして美(=女)は奸智をこらして逃れようとし、鏡や装身具や意識的な媚態のような、その虚栄象徴の人工性の極致をこらした防衛策をつくして死の解体する力と競い戦い合うのである。」今回はここまでにします。
    「綺想の美術廻廊」を読み始める
    「綺想の美術廻廊」(斎藤靖朗監修 芸術新聞社)は「種村季弘・異端断片集」という副題があって、ドイツ文学者種村季弘の美術に関わる言葉を集めた書籍で、嘗て種村ワールドに親しんだ私は、当時を振り返りながら本書を読むことにしました。前に読んでいた「奇想の美術館」(アルベルト・マングェル著  野中邦子訳  白水社)に続く奇想繋がりで本書を選びましたが、扱っている芸術家はまるで異なります。本書を捲ると図版が多く、そのほとんどが頽廃的な雰囲気を持つものばかりで、これはマニエリスムだなぁと思いました。私は自分が求める作風とは別に、自分とは正反対に位置する世界に惹かれてしまう傾向があります。学生時代に幾つかのアンダーグラウンド演劇に通っていた頃を思い出すのです。さらに海外生活にあってもウィーン幻想絵画に興味関心がありました。私には情念やエロスを表現することは到底無理で、自分の中にないものをねだっている子どもの感覚に近いのかもしれません。本書の序にあった文章から引用いたします。「種村が文章を執筆するうえでその理論的支柱のひとつとしたのが、グスタフ・ルネ・ホッケのマニエリスム論です。マニエリスムは、本来はルネサンスとバロックの間に生まれた極度に技巧的・作為的な芸術様式を指す言葉です。しかし、ホッケは師のE・R・クルツィウスの研究を継承し、『古典的=アッチカ風、調和的、保守的。マニエリスム的=アジア風、ヘレニズム風、非調和的、近代的』というような、古典主義と対になる概念としてマニエリスムを定義し、さらにヨーロッパの文化が両者の緊張関係のなかで形成されてきたことを明らかにしました。~略~本書は二つのパートに分かれています。前半は『吸血鬼』『化身』『怪物』『魔術』という四つの章で構成しました。~略~後半では種村が生前親交のあった作家たちに残した言葉を紹介します。」(斎藤靖朗著)前半の図版に添えられた文章は、凝縮した詩的な語彙が並んでいて、理解が覚束ないものもありますが、気に留まった箇所を選んでNOTE(ブログ)に書いていきます。
    教職の名残り
    今日は朝から工房に行って、昨日窯入れした作品の温度確認をしてきました。これで新作4点目の焼成になります。現在の私の頭の中は創作活動しかなく、新作陶彫の制作工程やら自宅で取り組んでいるRECORDのデザインについてあれこれ考えている日常です。読書は新しい書籍を取り出して読み始めました。この書籍にしても美術関係のもので、今の私の生活は全てが美術で彩られていて、それは前から私が希望した生活でもあるのです。5年前に教職を退職した私は、長年従事してきた教職に対して既に未練はなく、寧ろこれからの人生を好きなことに費やしてもバチはあたらないだろうと退職時に考えました。それでも教職の名残が今もあって、今日は地元にある市立中学校の学校運営協議会に出席してきました。学校運営協議会とは、法律(地教行法第47条の5)に基づいて教育委員会が学校に設置する協議会のことで、校長が自らの学校運営に関して地域から意見を聞き、支援を求めるものです。私も校長の立場にあった時は地域の方々に意見をしていただきました。今は地域の一員となった私は気楽な立場となり、授業を見る機会が少なくなった私には、各教科の授業を見ることができて、それだけでも良い刺激になっています。生徒一人に1台端末が配布されていて、それを見ながらの授業や学習発表は、私の頃にはなかった学習環境であり、それでもノートに手描きしている生徒が多かったのに、私はホッとしていました。私は古い世代と言われても、紙ベースの教科書を開き、ノートに手で文字を書く姿勢が今でも学力向上に役立つと信じているのです。利便性の高い電子機器を必要としながら、それに依存することがあってはならないと考えているからです。脳が記憶を刻むのに手を使うことが大事なのだと私は何の根拠もなく信じていて、アナログはどの時代になっても廃れることはないと思っています。私の創作活動もそのアナログの最たるもので、古代から同じやり方で粘土をこねて成形をしているのは縄文人と変わりません。今日は教職に就いていた頃の記憶を呼び覚ました貴重な一日になりました。
    大徳寺は「水墨障壁画の宝庫」
    先日出かけた東京国立博物館で開催している「大徳寺展」。数ある逸品の中でも、私が気を留めた作品は、まず中国の禅僧画家牧谿による「観音猿鶴図」でした。微光に包まれた幽暗な世界に観音、猿、鶴が溶け込んだ墨画淡彩が展覧会入口で、私を迎え入れてくれました。図録に大徳寺は「水墨障壁画の宝庫」であると記されていて、その名の通り高度な障壁画の数々が展示されていて、私は暫し立ち尽くしてしまいました。まず、狩野派で言えば伝正信筆による「武石白鶴図屏風」や「四季花鳥図」は墨の濃淡と描き込みが見事でした。孫にあたる永徳筆の「花鳥図襖」や「琴棋書画図襖」には瑞々しさがあって、たっぷりした空間を感じました。図録より関連の文章を引用します。「永生十年(1513)に古嶽宗亘の塔所として創建された大仙院方丈の障壁画は、創建時の方丈遺構と障壁画遺品が完備し、当初の配置を再現できる点でもきわめて貴重である。大仙院の襖絵は、方丈内で最も格式の高い室中を足利将軍家同朋の相阿弥が担当し、その他の部屋は元信とその一派が担当した。室中に描かれたのは瀟湘八景図で、牧谿様にならった湿潤な大観的画面が展開している。檀那の間を飾る四季花鳥図では、水景を中心とする水墨山水の中に色とりどりの花鳥を配しており、元信による真体花鳥図の真骨頂を示す。~略~時代の寵児として華々しい活躍を見せた永徳だが、ここで彼に真っ向から対峙した絵師がいた。長谷川等伯である。等伯は能登から上洛し、永徳の没後は秀吉の画事を務めるに至るまで昇りつめたが、その飛躍の大きな契機となったのが大徳寺における仕事であった。」有名な「唐獅子図屏風」を描いた狩野永徳や、同じように有名な「松林図屏風」を描いた長谷川等伯という、私にとって馴染みのある絵師が登場してきて、「大徳寺展」は一気に親しみを持つに至りました。ただ幾度となく見て記憶にある水墨画より、ここで初めて目にする障壁画の方が新鮮であり、また運筆を確信するだけで、楽しみが倍増することもよく分かりました。水墨障壁画は総じて湿潤な空気感を表現することに長けていて、これが日本人の日本人たる特徴なのだろうと思いを新たにしました。