Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

  • Tag cloud

  • Archives

  • 「前衛美術と文化的課題」について
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の、「前衛美術と文化的課題」の気に留めた箇所をピックアップいたしますが、著者が原稿を執筆したのは1930年から40年頃ということを考慮する必要があります。「現在の美術の文化性を決定する要素はいろいろあるであろうが、個性的欲求と集団的欲求とを調和させること、ないしは綜合させることにあるとわたしは考える。このことはもちろん個性的な表現を集団的な欲求のために抑圧し無視する意味ではない。~略~国策性は政治の主題であって、美術はそれに即応しつつ個有の動機をもたねばならないのである。」超現実主義に触れた箇所もありました。「すぐれた芸術の神秘的な部分は、無意識的欲望の現実的結晶だということに異論はあるまい。この無意識が現代の説明によってそれぞれ変化してはいるが、その凝結と訴求の真理は恒久的あるということができよう。ブルトンらの超現実性の理念が、きわめて急進的に見えながら、たえず芸術のうちにその解決を求めている事実はなにを物語るのだろうか。人間の行為そのものにはひとつの限界があり、そこに表現が必然化されるのである。あるいは永遠性の証拠が必要とされるのである。」抽象主義にも触れた箇所がありました。「現在の日本の抽象主義の傾向には、象形芸術と必然的な連関をもった一つの系(再現的要素は完全な客体に移行すべきモティーフとして存在する)と、完全に造型的理念として独立しようとする非象形芸術の系とが並存しているように見える。この二つの系はもちろん互いに矛盾しながらひとつの意志に沿っているように思える。」70年も前に書かれた評論ですが、改めて芸術の本質を浮き彫りにしていて、当時から比べれば多様化した2020年代の芸術表現にも一脈通じるものがあると私は感じました。言い回しの古さはともかくとして、優れた論考であることに違いはありません。
    日本人画家に関する三題
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の、日本人画家に関する三題を取り上げます。ひとつは28歳で早世した画家飯田操朗に関する著述です。「作画生活を通して、飯田操朗がわたしたちの前に現われた期間は、まことに短かいものであった。この短かさが、彼の創造を、未完成なものにしたことは争われないとしても、限定を余儀なくされた彼の若さは、彼の瞬間的な時間を凝縮せしめるのに充分であった。しかも、彼のような時代と位置にいた若い画家としての意欲と体験とは、決して単純なものではなかったはずである。彼自身、目まぐるしい転換を短かいあいだに意識しなければならなかったであろう。こうした廻り燈籠のような反映のなかで、彼の絵は描かれはじめた。その影響はいくつかの習作のなかに、もっとも素直に感受されている。~略~キュビスム以後の、分析的な方法や、誇張的な方法が、彼のエチュードを強く支配してきたことを見のがしてはならない。むしろ彼の積極的な意欲は、同時代の同じミリューの作家たちと同じく、キュビスム後期からシュルレアリスムまでの、近代絵画の発展をわが国の西洋絵画の特殊な錯雑性のなかで、間断なく眺めてきたのであった。」次に桂ユキ子に関する文章です。「桂ユキ子のコラージュ・絵画を阿部芳文が撮した写真を見て、わたしは甘んじて写真のトリックにかかることをよろこんだ。この写真のなかに、慣習的な同化法則によって、重複物の世界をさがすとき、人は意外な花束に出会うだろう。それが桂ユキ子のコラージュである。」最後に「飾窓のある展覧会」を訪れた著者に鑑賞者から話しかけられた言葉を引用いたします。「わたしは偶然この会場で見知らぬ中老の一紳士からの熱心な質問を受けた。わたしたちの話は物体にまではおよばなかったが、話の末に、『かつてわたしは北陸の山脈で不思議な皺と形をした大きな古岩に出会った。わたしには地質学上の知識はないが、その石全体に妙に謎のような深い印象を与えられた。いまこの展覧会で図らずもその妙な印象の謎が融けるような気がする』とその人は語った。」今回はここまでにします。
    週末 些細な気分転換
    日曜日になっても、朝から工房に籠って陶彫制作に明け暮れていました。創作活動で1日7時間以上も陶土に対面しているのは、なかなか厳しいものがあって、3年前の退職まで仕事をしてきた職種とはかなり異なっています。教育職と言えども勤務には緩急があって、生徒たちとの触れ合いや指導支援にも緊迫した時間や緩い時間が存在しています。授業のない空き時間は教材研究をしながら、ほっとする余裕の時間を持つことも出来ました。机に積み上げられた課題が勤務時間には終わらないことも暫しありましたが、職員室には同じように課題を抱える同僚がいて和気あいあいとしていました。管理職になっても基本的には同じで、学校運営でも組織的対応がなされていたので、私としては心強い限りでした。私の個人的な創作活動はガラリと雰囲気が変わり、仕事に責任を負わない分、自分の納得との折り合いになり、どこまで粘って自己表現を深めるのか、全てが自分次第になるのです。そうした中では当然のように緊張感もあり、それを解消する手立てがなければ精神的に追い詰められることになりかねません。時間をとってお茶を飲むこともせず、散歩もしない私は、緊張感解消のために何をしているのか、今日は自分で自身を観察してみました。そこで無意識に些細な気分転換を繰り返している自分に気づきました。陶彫制作には土練り、成形、加飾、仕上げ、化粧掛け、焼成という工程があり、それも複数の工程を段階を変えてやっています。私が制作サイクルと呼んでいるものですが、ひとつの工程が終わると、私は手を洗いに行きます。陶土で泥まみれになった手を何度も洗い、自宅から持参した水筒から水を一口飲む行為を繰り返していたのです。使う道具も何度も洗います。またすぐ使うとしても必ず洗っています。その時は手に馴染んだ道具に感謝もしています。これが些細な気分転換になっているのだろうと思います。昔、受験時代にデッサンを描くときに、鉛筆を小刀で丁寧に削っていましたが、これも気分転換として似た行為だったのかもしれません。緊張を緩和する手段は何でもいいのではないかと思えた工房での一コマでした。
    週末 創作に模索を繰り返す1週間
    週末になりました。今週を振り返ってみたいと思います。今週は毎日工房に出かけ、朝から夕方までの7時間から8時間程度は陶彫制作に明け暮れました。ほぼ退職前の勤務時間と同じですが、教職とは内容がまるで異なっていて、人と話し合うこともなく一人で悶々とした時間を過ごしていました。時折、自分のいる前後がわからなくなるくらい作業に集中していた時間もありました。創作内容に模索を繰り返していると、休憩を取っても完全に休まることがないのです。ラジオからFMヨコハマを流していますが、それもほぼ聴き流し状態で、目の前の陶彫立方体しか視界に入らない閉鎖的な状況が続いています。先日テレビでやっていた宮崎駿監督のドキュメンタリーでは、お茶を飲んだり、散歩をしてみたりして、監督が気分転換を図っていましたが、私の場合は陶彫の作業が始まると、散歩に出ようという発想はなくなります。陶土に常に触れていないと気が済まなくなるからです。鉛筆で描く絵コンテの行為より、手そのもので陶土を捏ねる行為は、より身近な身体的行為なのかもしれず、その触覚的なところに魔物が棲んでいるのだろうと思っています。私が自分の作品に距離をとるのは、窯入れ前の仕上げや化粧掛けの作業の時と、実際に窯に入れて作品を焼成している時です。身近な身体的行為で作った自分の分身のような作品が、窯という自分の手の届かない世界に入っていき、そこで炎神に遭遇し、鎧を纏って私の手元に戻ってくるのは、私にしてみれば不可思議なことなのです。それでも焼成が作品を昇華しているのではないかと私は解釈していて、心地よいことでもあるのです。
    TVから流れた創作への苛立ち
    昨晩はテレビをちょっと見てからRECORDの彩色をやろうと考えていました。たまたまNHKを見ていたら、宮﨑駿監督のドキュメンタリーをやっていて、思わず惹きつけられて最後まで見てしまいました。NHKでやっていた番組は『宮﨑駿と青サギと…~「君たちはどう生きるか」への道』で、米国アカデミー賞長編アニメ映画賞を受賞したアニメ作品がどのように生まれたのかを、7年という異例の密着取材で撮り終えたドキュメンタリーでした。私が何より惹きつけられたのは、悶々とした創作現場で、幾度も頭を掻きむしり、描いては消し、消しては描く絵コンテ作りでした。納得いくまで粘る宮﨑監督の苛立ちが、自分とオーバーラップしてしまい、何とも言いようがない気持ちにさせらました。勿論、宮崎監督と私ではその表現のスケールや知名度も、月とスッポンほどの差がありますが、知名度がどうであれ、創作に向かう姿勢は同じではないかと思っています。私も陶彫制作で苛立ちを覚えます。以前、私が校長職にあった頃は、組織を動かすために判断を下す時の迷いや苛立ちがありましたが、それと個人の創作行為では質が違っていると感じています。組織があれば職員と会議をすることで、有効な判断が見えてきます。判断を間違えば職員や生徒たち、保護者たちに多大な迷惑をかけることになりますが、現在の創作行為は私一人で苦しんでいるだけで、他人に迷惑をかけることはありません。ところが映画製作となると、組織があって、しかも全てが監督一人の責任になるので、その苛立ちは半端なものではないと察しています。創作行為の苛立ちは、たとえ個人であれ、組織があっても、自分自身の内面の問題となるので、そこは大きく変わるものではないと私は思っているのですが、いかがでしょうか。そんなことを考える契機を与えてくれた昨晩のドキュメンタリー番組でした。